ぎっくり腰

先週の日曜日は感謝礼拝だった。良いことであれ、悪いことであれ、特にこれといって大きな出来事のない一年であったので、平凡な日常を感謝した。

さてその翌々日のことだが、朝仕事に行くためいつもそうするように玄関で靴を履いて、さぁ鞄を持とうと腰を曲げたその時、まるで極太の針か何かで突き刺されたような突然の痛みを腰に感じて、私は思わず「イテテテェーッ」と口にしてしまった。もちろん極太の針でさされたことはないから、私の大げさな想像でしかないが、一言で言うと、ぎっくり腰をやってしまったのである。数秒ほどそのままの姿勢で動けなかったが、痛む腰をさすりながらなんとか立ち上がって、そのまま出掛けることができた。もう若くはないのだろうかなどと考えていたのだが、ぎっくり腰は年齢とはさほど深い関係にあるものではないらしいことを知った。いや、それだからと言って安心するのはまだ早い。むしろ年齢を重ねるごとにぎっくり腰になり易くなるというのであれば、逆らうことのできないものと諦めることができるかもしれない。ところが、ぎっくり腰というのは、運動不足が原因でなることが多いそうだ。つまり腰周りの筋肉が弱くなっているというのが理由らしい。

正直言うと医者にはまだ行っていない。行けばいいのかもしれないが、どうも私は猜疑心が強いらしく、風邪とは違って医者に行けば治るようなものではないと思っているのだ。医者に掛かれば確かに痛み止めは出してもらえるかもしれない。しかし半年ほど前に腰を痛めて医者に掛かった時には、処方された薬を飲んでも痛みは治まらなかったのだ。そんなわけで別の薬を出してもらったのだが、何とか痛みは治まったものの、今度は副作用で手に発疹ができてしまったのである。ついでに手の発疹を見てもらおうと別の医者に行ったら、まだ腰を痛めて薬を飲むような年齢じゃないでしょ、運動しなさい、運動を、と諭されてしまった。今考えてみると、もっともな意見である。そんなわけで、医者に行こうという気持ちが今ひとつ起こらない。

幸い日常生活に支障がでるような痛みでもないので、ひとまず急に姿勢を変えたりすることのないように気をつけて、自然に治るのを待つのみである。そして治ったら腹筋でも鍛えるように心掛けるしかあるまい。

日常を感謝した後、あまり日常ではない出来事で始まった一週間であった。嬉しくないと言えば嬉しくないことに違いないが、必ずしも悪いことだとも思えない。もっともそれに気付くのに火曜日から今日まで掛かったのであるが。

健康診断の結果は尿酸値の値を除いて概ね良好であり、私は自分自身が健康であると信じて疑うことがないせいか、自分の腰について気に掛けることがあまりなかった。ところが久しぶりに腰を痛めてしまったおかげで、気持ちの片隅にもなかったようなことが実はありがたいことであると、改めて気づかされたような気がした。もしかしたら、一旦腰の痛みが退いてしまったら、今のようなことを考えなくなってしまうかもしれないが、少なく今は腰が痛まないでいられることを感謝に思うのである。

そう考えてみると、日々接している様々な物事を私は当然のものとして受け入れていることに気づいた。例えば空気。空気が特別だと常日頃から思っている人は、そう沢山はいないだろう。しかし私の腰と同じように、空気がなくなって初めてそのありがたみを感じる人は、きっと大勢いることだろう。空気がなければ人は生きていくことができないからだ。それだけ人にとって欠くべからざる大切なものであるのに、そのありがたみを感じないというのは、空気はあって然るべきものとして、特別な思いを抱くことがないからなのだろう。空気だけではない、水にしてもそうだし、太陽の光と熱にしてもそうだ。それに気にしているつもりであっても、実はそれほど気にしていないということもある。食事の前に感謝の祈りを捧げるが、毎日毎日そうしているうちに半ば感謝が形だけのものになっているようなことはないだろうか。私はそうである。

何はともあれ、当然と思えるものでも、すべてを備えて下さっているのは神様なのである。どれほど感謝したとしても、感謝し過ぎるということはまずないだろう。