街で見掛けた救い主の御名

時間が経つのは本当にあっと言う間である。毎年この季節になるとそう思うのである。ついこの前、年が明けたと思ったら、もう年の暮れが目の前に迫っているのだ。

ところでこの時期になると街の至るところで救い主の御名を目にしたり耳にしたりするのである。「クリスマス」という言葉の中に、キリストの御名があるではないか。カタカナで書くと気付きにくいが、英語で書くとよく分かる。”Christmas”すなわち”Christ”と”mas”である。キリストのための祭儀という意味になる。クリスチャンであっても意識していないければ、意外と見ているようで見ていないものであり、聞いているようで聞いていないものかもしれない。それともあちらこちらと至るところに氾濫しており、麻痺してしまったのかもしれない。いずれにせよ、気をつけていないと、見落としてしまいがちである。考えてみれば、クリスチャンが総人口の一パーセントにも満たないと言われているこの国で、日曜の礼拝でもないのに、救い主の御名を見たり聞いたりするとは何とも不思議な気分である。

理想的なまでに真面目なクリスチャンであれば、街中でキリストの御名を見たり聞いたりすることで励まされたりするのかもしれない、しかし私の信仰が足りないのか何なのかよく分からないが、私個人としては、気が滅入ってしまいそうになるというのが正直な感想である。それというのも、世間の人々が気にしているのは「クリスマス」というイベントであって「キリスト」ではないことが見えてしまうからだ。これだけ救い主であるキリストの御名を日々見たり聞いたりしているにも関わらず、彼らはその言葉の意味について考えていないように思えてしかたがない。世間の人々がただの祭りとして楽しんでいるだけのように私の目には映るのだ。

むしろ最近は「クリスチャンが少ない日本でクリスマスを祝うのはおかしい」という意見に納得してしまうほどである。そう考える人たちの方が、クリスマスを真剣に考えているのではないだろうか。たとえクリスマスに対して否定的な考えをもっている人たちの方が、キリストを意識しているということになるのではないだろうか。

あれやこれやと考えれば考えるほど、私の喜びも薄れてしまうのである。周囲の様子に左右されてしまうとは、私の信仰心も足りないのだろうか。

さてこれを書いていて、我が家の娘たちが飽きることなく見ていた”A Charlie Brown Christmas”(邦題は「スヌーピーのメリークリスマス」だったと思う)のビデオの中の一場面を思い出した。英語版でしか見たことがないので、日本語版ではどうなっているのか分からないが、チャーリーブラウンがこう嘆く場面があった。”Isn’t there anyone who knows what Christmas is all about?”「クリスマスは一体何なのか、知っている人はいないの?」そこで、親友のライナスがこう答えて言った。”Sure, Charlie Brown, I can tell you what Christmas is all about.”「もちろんだとも、チャーリーブラウン。僕はクリスマスが何だか知っているよ。」そしてクリスマスの劇の練習をしていた彼らの立っていた舞台の照明が暗くなると、ライナスは聖書を諳んじるのだった。30分もない短い作品である。英語も簡単なので、機会があれば一度見ることをお勧めする。

クリスマスの意味を知らずに、この時期を過ごすことほど、虚しいというかもったいないことはないのではと思う。救い主の誕生について思いをめぐらすことなく、ただ浮かれ騒いでこの時期を過ごすのは、きらびやかにラッピングされたクリスマスプレゼントを開けてみたら、なんと中身は空っぽだった……というのと同じくらい残念なことだろう。