導くもの

一年ほど前に車を替えてから、時代の流れに乗ってみようかと思い、カーナビを取り付けてみた。それまでは未知の場所に出掛けたい場合、事前に地図とにらめっこして、目的地までどこをどう行けばいいのかを調べ、主要な交差点を紙にリストアップし、それぞれの交差点で右折するのか左折するのかそれとも通過するのかをメモしたものである。隣に座る人が地図を読めれば良いのだが、残念ながら私の妻はまるで地図を読めないので、そうするしかなかった。地図が読めない妻も、その紙を読む程度はできるので、彼女に読み上げてもらうこともできたし、それでも彼女の言葉に不安を覚えることがあれば、赤信号で停止したタイミングで彼女からメモをふんだくって、自分で見ていたものである。もしかしたら彼女気分を害してしまったこともあるかもしれない。

さて買うにしても、どれだけ役に立つのか分からないものに金を掛けたくなかったので、安いものを買ったのだが……なかなかどうして、これが実に便利なものであることを発見して、目から鱗が落ちる気分であった。なぜ今まで使わなかったのだろうかと考えてしまった。とは言っても本当のところは、そんな機械に頼るなんて、という思いがあったから使おうとしなかっただけなのである。新しいからとか皆が使っているからとか言うだけで、何でもむやみに否定してはいけないなぁとも思わされた。

その便利さに気付くや、安いものでは物足りなさを感じ、満足できなくなった私は、これまた時代の流れに乗ってオークションでもっと機能的に充実した中古品を購入してしまったのだ。自分で取り付けたので工賃も掛からなかったことを考えると、ずいぶんと得をしたと思う。何はともあれ、ナビを使うようになってから地図を開くことがなくなったのは事実だ。行き先を入力するだけで、あとはナビが教えるままに車を走らせれば目的地、もしくはその近辺に辿り着くことができるので実に便利である。もちろんなければないで地図を見ればいいのだが、その手間を考えてしまうと……もはやナビのない車には乗れないのではと錯覚してしまいそうだ。

長い前置きはさておき、どの道をどちらに進めばよいのか分からなくなった時、導いてくれる何かがあると実に心強いものである。そのようなことを考えていると、クリスマスにまつわるある話を思い出した。

昔三人の博士がいた。彼らは夜空にひときわ明るく輝く星に導かれて旅を続け、幼いキリストに出会うことができたという。逆に考えると、星に導かれなかったら、博士たちはキリストと出会うことがなかったかもしれない。星に導かれても二年近く掛かったのだ。

考えてもみれば、今までに一度として道に迷ったことがないと言える人はいないだろう。人は迷うものである。だから地図というものを人間は発明したのだろう。技術が進歩し、GPSが地図にとって変わったとしても、人は何かに頼らなければ迷ってしまうということに変わりはないのではないか。

目に見える道を歩むことすら時として覚束ないような人間であるから、心の中に迷いを感じることが必ずやあることだろう。そのような時、人は一体何を頼ればいいのだろうか。心の中をあらわす地図はない。もちろん人工衛星の信号が届くわけもない。悪く考えるとすれば、一緒にいてくれる人さえいないかもしれない。孤立無援になった時、人はどうすればいいのだろうか。人は誰にもすがることができないのだろうか。導きを求めることはできないのだろうか。

もう一度思い出してみよう。三人の博士をキリストのもとへと導いた星があったではないか。神がその星を彼らのために備えてくださったに違いない。なぜなら神以外の誰が、果たして人をキリストのもとへと導くであろうか。

2000年前、キリストが生まれたベツレヘムから遠く離れた国から、三人の博士を導いた神は、今も生きておられるのだ。そうであればこそ、同じ神が今を生きる人々を導いて下さったとしても何ら不思議なことではないはずだ。

助けがない、頼れるものがないと、人がそのように戸惑いを感じる時、求めるのならば、神がその人を導いて下さるだろう。