クリスマスの過ごし方

クリスマスである……らしい。が、どうもそんな気がしないのだが。

この時期は師走と言われているくらいだから、毎日があわただしく過ぎて行くのだ。やらなければならないことをあれこれ考えていると、とてもじゃないけど、クリスマスの雰囲気を楽しむ余裕などあったものではない。街の中はクリスマスの飾り付けで華やいでいるものの、前にも言ったように、本来の意味から離れ、ただのイベントとなってしまった抜け殻だけのクリスマスを目にすると、私は喜びを感じるどころか、ただただ虚脱感さえ覚えるのである。

この空しさは、何だろうか。私はクリスマスに何かを求めているのだろうか。もし、求めているのであるとしたら、何を期待しているのだろうか。誰かからプレゼントをもらうことだろうか。それともサンタがやってくることだろうか、いやいや、サンタは子供のところにしかやってこないのだ。私の娘たちにはプレゼントを持ってきてくれるだろうが、残念ながら私には何もない。もっともこの歳になってプレゼントもないだろう。何か欲しいものがあるのなら、自分で買え、だ。夢がないと言えば、まぁそうかもしれないが。

いや、クリスマスだから何かが欲しいというわけではない。

実に曖昧な言い方になってしまうが、ただクリスマスを感じたいのである。つまり、日常の様々なことで気を揉んだりすることもなく、世間の流れに心を揺るがされることもなく、体の力を抜いて、張りつめた気持ちを緩めて、救い主の誕生を思いだし、喜びたいだけなのである。

自分のちょっとの努力で時間を作ればよいだけなのかもしれない。それすらできないのは、やはり私の信仰が足りないからなのだろうか……それとも単純に私を取り巻く状況がそうなだけなのだろうか。さすがに周りに私の都合に併せるようにと言うこともできまい。なんとも複雑な気持ちである。

しかし考えてみれば、クリスマスを感じることができるとすれば、それは実に贅沢なことではないだろうか。

最初のクリスマスに思いを馳せると、様々な情景が浮かんでくる。もちろん聖書を読んでの、私の勝手な想像の産物でしかないのだが。

そのひとつに、野原で過ごす羊飼いたちの姿がある。恐らく寒い夜であったろう。見えるのは夜空に輝く星と、その微かな明かりに照らされた野原、そしてそこに眠る羊たち。彼らはその夜も、家に帰ることができない不満、羊の世話に追われる単調な日々の不満をぶつけあっていたことだろう。彼らはごく普通の人たちであった。良いことが起きれば喜び、そうでもなければつまらないと愚痴をこぼしていたに違いない。彼らは他の人々と比べて何かに優れていたわけでもなかった、むしろ都で活躍する律法家や司祭と比べたら、さえない人々であったかもしれない。ところが神はそのような羊飼いの元へ、御使いを遣わし、救い主の誕生を知らせたのだった。

いつも思うのだが、なぜ羊飼いたちが選ばれたのだろうか。救い主の誕生を知るに相応しい人々はもっといたことだろう。ところが神は「知るに相応しい人々」ではなく、むしろ「知る必要のある人々」に知らせたかったのだろう。例えば羊飼いのように、ごく平凡な、完璧ではない人々に。そのような人々こそが、救い主を必要とすることを神はご存知だったのだ。誰よりも先に救い主の誕生を、神ご自身から遣わされた御使いによって知らされた羊飼いたちは、本当に祝福された人々である。

彼らのようにクリスマスを感じることができたら、なんとも羨ましい限りである。しかし私自身も羊飼いのように、救い主の誕生を知る必要のある人間ではないだろうか。神は私にも救い主がこの世に来られたことを知って欲しいと考えておられるに違いない。そのためにもクリスマスはあるのだろう。であれば、私の気分次第でクリスマスを感じるか感じられるかと考えるのならば、それは何かが間違っている。

クリスマスを感じたいのならば、夜空を見上げて、羊飼いたちが聞いた声を思い出してみるのもいいかもしれない。