マッシュポテト

さてクリスマスがなんとか無事に終わった。無事に終わったと言うのも、妙な言い方かもしれないが、終わって一安心するというのも本音である。

いや、何もクリスマスを負担に感じているわけではない、クリスマスにやらなければならないことが多くて疲れを感じてしまうのである。いや、それともクリスマスに思いっきり気持ちが盛り上がったと思ったら、日常に引き戻されてしまうことに虚脱感を覚えてしまうのだろうか。冷静に考えてみると、どちらも本当のことであろう。しかしキリストをこの世界に遣わして下さったことを神に感謝する気持ちに変わりはない。もっとも無事にこの時期を乗り切れたことも併せて感謝したいと思う。

好きだし、つまりこれをしないことにはクリスマスじゃないような気持ちになってしまうが、やはり負担に感じられることを一つ挙げるとすれば、食事の準備ということがある。毎年クリスマスの食事の私が用意することにしている。と言っても、七面鳥を焼いて、付け合わせを作るくらいであるが。知らない人に話すと「自分でさばくのか?」「そんな大きいものをどうやって焼くのか?」という具合に驚かれてしまうことがある。しかし本当はそれほど難しいものではない。ただ時間が掛かることを除けば、むしろチャーハンの方が難しいのではないかと思う。

さすがに近所のスーパーでは七面鳥を扱っていないが、輸入食品を扱っている店に行けば手に入れることができる。詰め物は自分で作っても良いし、すでに味付けされたものも販売されている。ちなみに私は毎年後者を使っている。今まではバターと水を、ボウルに空けたパッケージの中身と一緒に混ぜるだけのお手軽な詰め物だったのだが、今年はちょっと凝ってみようと思い、玉ねぎを炒めたものを足して、水にバターを多めに入れ、隠し味に白ワインも入れてみた。もちろん何もしなくても文句ナシなのだが、今回はいつも以上においしくできたのではというのが、私の感想である。いずれにしても、七面鳥の肉汁がしっかりと染み込んだ詰め物は格別である。これなしでは七面鳥を焼いた意味がないのではとさえ思える。

さて、七面鳥や詰め物の他に、私はマッシュポテトも作るのである。こともあろうに、芋を茹でて潰して、バターと牛乳と塩で味を付けるだけの簡単な一品なのだが、今年は失敗してしまった。詰め物でバターをふんだんに使ったので、マッシュポテトではちょっとばかり遠慮をしてしまったのだ。バターが足りなくてやや粉っぽいポテトをなめらかにしようと、牛乳を多めに入れてしまったのが悪かったらしい。見た目はマッシュポテトになのだが、食べてみると味がしない。牛乳を入れすぎたせいで、芋本来の味が薄まってしまったようだ。おまけに歯触りも悪い。ぼそぼそしているのである。結局余ったポテトは後日妻の手に掛かってコロッケに化けてしまった。

芋を茹でて、鍋の中で余計な水分を飛ばして潰すところまでは良かったのだが、バターをケチったのが悪かったに違いない。始めよければ半ば良し、終わりよければ全て良し、と言うものだが、まさしくその通りになってしまった。これらなまだお湯を入れてかき混ぜるだけのインスタントマッシュポテトの方が断然おいしい。

何かを学んだとすれば、ケチるなということである。良いものを得たければ、そのための労力なり資材なりを惜しんではいけないのである。もっとも今になって気付くようなことでもないのだろうが、改めてそう感じさせられた。

そう考えて思うことは、信仰と言うか、祈りというものも出し惜しみしてはならないものなのかもしれない。但し、この場合は良いものを惜しむのではなく、良くないものを惜しむということである。さすがに神に最善を差し出すことを惜しむような者はいないだろう。むしろ、この祈りは相応しくないのでは、神にこれを求めるのは如何なものか…と考えることが多いのはないだろうか。神に見られたくない、もしくは見せたくない、そのような思いや考えがあったとしても、それを神から隠すことに何の意味があるだろうか。伏せたとしても、神はすべてをご存知なのである。であるならば、神の前に素直に自身の思いを表すことが、最良の結果を得ることになるのではないだろうか。