創世記Ⅱ

さて、まじめというか保守的というか、聖書に忠実なクリスチャンに、神が世界を造るのに何日掛かったかを聞けば、おそらく七日という答えが一番多く聞かれるだろう。もちろん、まじめではないかもしれないが、私も聖書に忠実であろうと努めているクリスチャンの一人なので、七日と答えるに違いない。なにしろ創世記にそう書かれているのだから。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。…第六日。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。…第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」(1章31節、2章2節)

もっとも七日目に休憩したのならば、実際に神が世界を造るのに要した期間は六日になるだろうが、そのような細かいことはおいておくとして、神が七日間で世界を創造したというのが通説である。五日でもなく八日でもない。

七日間と言えば、まず最初に思いつくのが、月火水木金土日である。月曜から金曜まで会社でこき使われ、土曜には家の都合にあれこれ追われ、やっとのことで日曜を迎え、ゆっくり休めるかと思いきや、朝から教会に行かなければならないという具合で、休みなのかどうなのか分からない。疲れが絶頂に達した日曜の夜を迎えた頃には、月曜はすぐ目の前に迫っている。疲れる割には大して達成感が得られないというのもまた事実である。実際、七日間で何かを成し遂げることがあるかというと、あまりないような気がする。悲しいかな、せいぜい私が七日間でできることはこの程度である。

ところが神は同じ七日で世界を造られたのだから、何というか、驚きと畏怖とが混じったように感じ入ってしまう。神だから七日で世界を造ることができたのか、七日で世界を造ったから神なのか…どちらの言い方が相応しいのか曖昧であるが、何と言おうとも神が天地を創造されたことに違いはないだろう。大事なことは神が世界を造るのに七日掛けたということではなく、神がその手で世界を造られたということである。極端な話ではあるが、神が一時間で世界を造ろうと、一世紀掛けて造ろうとも、さほど違いがないようにさえ思える。人がいくら時間を掛けようとも、世界を造ることができないように、それは時間の問題ではなく、できるかできないかの問題なのであろう。

ところで、神が最初に造ったものは何かというと、それは光であった。創世記にはこう書かれている。「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(1章3節)

そして、神はこの光を闇と区別し、光を昼と呼び、闇を夜と呼ぶことにした。これが神が最初の日にした仕事であった。あまり意識せずに読んでしまうと、へぇ、すごいなぁ、やっぱ神様は万能だなぁ…くらいにしか思わないかもしれない。もっともそれが当然の反応なのであろうし、私もそう思っている一人である。さて、光というと、普通は「お天道様」のことを思い浮かべるだろうが、この後をよく読んでみると、神が太陽を造ったのは、四日目のことなのである。きちんと創世記を読んでみれば、太陽と月と星を造る前に、神は陸地と海、植物を造っていることに気付くだろう。順番で言うなら、地球が先で、その後から地球の周りの天体ができあがったということになる。

創造の四日目まで読んでも、へぇーとしか思わない人はまじめに創世記を読んだことがないか、失礼ながら鈍感な人である。もっとも自分のその一人であったからあまり偉いことは言えないが。しかし、ちょっと考えてみれば、太陽があるから光があるという我々の常識とはまるで違うことなので、疑問に思うことだろう。もちろんお日様が光を放っているのは疑いようがない。ところが、太陽や他の恒星が光り輝く前から、世界には光があったのである。そんなわけはないと思うかもしれないが、太陽の後にこの世界に誕生した人間にそう言い切ることはできまい。それではこの世界を最初に照らした光とは何であろうか。ここにはそれが何であるかは書かれていない。しかし、光が何であるかを示唆する記述が、意外にも聖書の最後の書、黙示録の最後の方に書かれている。「神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示録21章23節)

そう、この世界を最初に照らしたものは、神の栄光であったのだろう。