善悪の知識の木Ⅰ

神が天地を創造されたとき、御自身の姿に似せて人を造った。そして神は、エデンと呼ばれている地に園を設け、人をそこに住まわせることにした。神は人の必要を満たすために、食べることの出来る実を実らせる木を園に生えさせ、土地を潤すために川が流れるようにされた。また、人が孤独を感じることがないように、様々な動物や鳥を住まわせたという。さらにもう一人の人を園に住まわせることにした。

これが、クリスチャンでなくとも一度はどこかで名前だけでも耳にしたことがある「エデンの園」である。

さて、エデンの園というと、その言葉の響きのせいだろうか、まず楽園というイメージが思い浮かぶ。確かに、川が流れるその畔には、見るに心地よく香りも味も申し分のない実をつける木が立ち、多くの動物が住まうところは、殺伐とした日常を過ごす今の私には、最近の言葉を借りるならば「癒し系」の場所に思えてしまう。今まで私が訪れた土地で一番楽園に近い場所といえば、新婚旅行で訪れたタヒチを思い出す。果てしなく広がる海は青く澄んでおり、色鮮やかな魚が泳ぐのを見ることができ、道沿いの民家の庭にはマンゴーの木が、これでもかと言わんばかりに実をつけている…楽園の持つ魅力は筆舌に尽くし難い。

エデンの園には、おとぎ話としか思えないような実を実らせる二本の木が園のちょうど真ん中に植わっていた。一本はいのちの木、もう一本は善悪の知識の木であった。いのちの木の実を食べることで、人は永遠の命を得ることができ、死を知ることもなかった。そして、善悪の知識の木の実は、その名が示すとおり、その実を食べることで、人が善と悪を知ることができる実であった。もちろん、今は世界中どこを探してもそのような実など見つけることができないし、実が食べる人に与える夢物語のような不思議な力は我々の理解と常識をはるかに超えている。であるから、あれこれ考えてもしかたがないので、過去のある時期に、エデンの園にそのような木があったということを信じよう。

ところで、神はエデンの園に住む人に、ひとつだけ戒めを与えた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16~17節)

さて、冷めた目で見ると、善悪を知ることの一体何がそれほど悪いのだろうかと考えてしまう。実際、今の世の中辺りをちょっと見回すだけでも、良いことと悪いことの区別がつけられていないような輩を目にすることが多い。いっそのこと善悪の知識の実を毎日食べさせたいくらいである。とは言っても、それは今の時代を生きる私の考えでしかない。エデンの時代の神は別のことを考えていたのだろう。

天地創造の直後、人は楽園で何の苦労も気兼ねもなく暮らしていた。羨ましいようにも思えるが、逆にそれはそれで退屈なのではないかとさえ思えてしまうくらいである。しかし、エデンの園ではすべての必要が満たされていたので、苦労がなくて当然であったに違いない。そして将来への不安もなければ、今心配することもないので、あえて何が良くて何が悪いかを知る必要もなかったのかもしれない。いや、それとも悪いことが何かを知らなかったからこそ、苦労がなかったのかもしれない。これ以上深く考えると頭がこんがらがりそうなので「要するに人は純真無垢であった」くらいにしておこう。そうすると、神がこの戒めを人に与えた理由は、人を守るためであったのかもしれないとも考えられよう。ひとたび人が善悪を知るようになったら、人は悪を行うようになることを知っていたのかもしれない。そして悪事の報いとして、人は重荷を背負い込むことなることも見通しておられたのだろう。それを防ぐために神はこの戒めを与えたのかもしれない。

今でも神は我々の心に語りかけ、戒めを与えることがある。神が何を語るかは人それぞれであるが、神が与える戒めの言葉は、我々を守るための言葉なのであろう。神は戒めに背いたからといって人を罰することはない。しかし、人は自らの行いの故に、自らの重荷を一層重くしているのである。