神と歩いたエノク

カインがアベルを殺し、住んでいた地を追われた後、アダムとその妻エバの間に新たに男子が誕生した。その子はセツと名付けられた。さて、アダムの家にセツが生まれた後も、多くの息子や娘が生まれ、アダムは九百三十年でその生涯を終えた。そして、アダムの息子セツは九百十二年生きたという。

いや、何というか、長生きの家系と言うべきか。九百年生きるとは半端じゃなく長生きである。九世紀も生きるとはどのようなものか想像することすらできない。今が二〇〇六年であるから九百年前と言ったら一一〇六年である。日本の歴史で言うと、まだ平安時代の中期である。鎌倉幕府や江戸幕府が存在すらしていない時代である。その当時に生まれた子供が、鎌倉が観光名所となり、江戸幕府は過去の歴史となった時代まで生きているということになるから、今日の常識では考えられない。

ひとりの老人が六本木ヒルズを見上げながら、ぽつりと「若い頃は出来たばかりの金閣寺を見に行ったものだ…」とつぶやくようなものである。人が聞いたら、この爺さん気が触れてしまったのかと思われて当然なくらいの長生きである。もっとも金閣寺が建立され頃には、この人はすでに二百歳を超えているくらいであろうが…。

なぜ昔の人がこれほど長生きであったのか諸説あるかもしれないが、それは今はどうでもいい。アダムにしろセツにしろ、とにかく長生きであった。ほとんど不死身に近いものさえ感じられる。しかし、どんなに長寿であろうと、彼らも死から逃れることはできなかったのである。アダムの系譜が創世記の五章にずらずらと書かれているが、そのいずれもが気が遠くなるくらい長寿ではあるのだが「こうして彼は死んだ」で締めくくられているのである。そうやって冷静に考えてみると、我々と違っているところはさほどないようにも思える。

ところが、たった一人だけ例外がいたのである。それは、セツの子の子の子の子の子であるエノクであった。彼の最期についてはこう記されている。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5章24節)

もっとも、死ぬことといなくなることに何か違いがあるのかと言えば、どちらもこの地上からいなくなってしまうということだけを考えてしまうと、違いが分からなくなってしまうような気がする。ここで注目しなければならないことは、エノクがいなくなったということではなく、なぜエノクがいなくなったのか、どのようにしていなくなったのかということであろう。ずばり、彼が神と共に歩んだということと、神ご自身が彼を取ったということが、彼の父祖との大きな違いである。

さて、エノクの父たちが神と共に歩まなかったのかどうかは、それこそ何も書かれていないので、何とも言えない。しかし、カインとアベルの話に戻ってしまうが、神に認められるには、行いではなく心と意志が神に向いていることが必要であった。そう考えてみると、エノクがそうしたように神と共に歩く、つまり神と共に日々を過ごすためには、常に神に目を向けておくことが必要なのであろう。そしてまた、神と共に歩くことで、自然と心も思いも神に向いていくということになるのかもしれない。そのようなエノクを、神は取ってしまったのである。取るとは一体どういうことなのだろうかと考えてしまうが、それについては何も書かれていないようなので、私には分からない。よく分からないが、ひとつだけ確かなことがある。それは、エノクは死を体験することがなかったということだ。

では、我々もエノクがそうしたように神と共に歩くようにすれば、死を体験しないで済むのであろうか。そうでもあるし、そうでもない。長生きをしたアダムやセツでさえも避けることのできなかった死を我々が逃れることはできない。彼らほど長く生きることのできないこの体はいつか死をもって滅ぶのである。しかし、アベルやエノクのように神に心を向けていれば、我々の霊は死ぬことがないのである。また幸いにも今の時代を生きる我々にはエノクのような完璧なまでの信仰はいらないのである。神と共に歩まない日があっても、キリストにおける信仰が我々の不完全をすべて補うのである。