洪水の後

神に認められ、洪水から救われたノアとその家族であった。しかし、彼らも常に正しいことを行っていたわけでもないようだ。洪水の後、ノアはぶどう畑を作り始めたが、ある時、彼はぶどう酒を飲み過ぎてすっかり酔いつぶれてしまった。それだけなら、まぁ、そんなこともあるかと言えるが、こともあろうか素っ裸で休んでいたという。さて、それを見かけた息子のハムは、兄弟のセムとヤペテに伝えた。それを聞いた二人の兄弟は父ノアの裸を見ないようにして、父の体に服を掛けた。酔いから醒めたノアは息子たちが何をしたかを知ると、なんとハムの息子のカナンを呪ったのである。裸で酔いつぶれている父親に対して何もしなかったハムを呪うのならまだしも、その息子を呪うとはノアも理不尽なことをすると思ってしまうが、父の過ちは子の代まで及ぶということなのだろうか。余程腹を立てていたのかもしれない。しかし、よく考えてみれば、素っ裸で酔いつぶれるまでぶどう酒を飲み続けたノアにも責任の一端があるように思えてしまう。妙な言い方になるかもしれないが、この時に得をしたのはセムとヤペテであったろう。神と共に歩み、神によって救われたノアとその一族にとって理想の生き方というのがあるのならば、それは命があることを感謝し、ますます神に忠実になることだったろう。ところが彼らの実際は、泥酔する父親、親不孝な息子、そのおかげで祝福を得た兄弟、父の過ちのために呪われた子といった具合であった。

そのようなノアも、やがて九百五十歳でその生涯を閉じ、彼の子孫は時と共に様々な地方に移り住むようになった。それにしても、人類は大変な一族を先祖にもったものである。

ノアとその家族の物語はこれで終わりである。文字通り波瀾に満ちた生き方をした人々であった。この世の終焉、四十日四十夜続いた大雨、百五十日の大水、世界の再生を経験した者は後にも先にもノアとその家族だけである。箱舟の中でどのように過ごしたのか、水が引いた後、どのように生活したのか、もう少し書かれていても良さそうであるが、これ以上のことは書かれていない。おそらく創世記の著者と、彼に知恵を与えた神が必要と感じなかったからだろう。それに、時間というのは常に一つの方向にしか進まないものである。ノアの話にばかり気を取られていては、それ以外の大事なことを見落としてしまうかもしれない。

さて、人々が再びこの世を満たし始めた頃、彼らは同じ一つの言葉で話していたという。人々はやがてシアヌルという平地に移り、そこに住むようになった。そこで彼らは互いにこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11章4節)

彼らは自らの力を誇示しようとしていたかのようだ。天まで届くような塔を建て、自らの名を知らしめようというのは、思えば今でもあまり変わらないような気がする。もっとも、今は単に名をあげるためだけでなく、それなりの理由があって高い塔を建てるのだから、それに問題はない。ところが当時の人々は名をあげるために塔を建てようとしていた。神に到達し、自らも神のようになろうとしている人々の行いを、神が見逃すわけはない。神は地上にやってきて、彼らが作っている塔を見て言った。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創世記11章6~7節)

するとその言葉の通りになり、今まで同じ言葉で話をしていた彼らは、言葉が通じなくなってしまった。こうなると塔の建築を諦めざるを得なかった。そして、お互いに同じ言葉を話す者同士を見つけては、それぞれ別の地方に去って行ったのだろう。

おもしろいことに、誰でも一度くらいは名前を聞いたことがあるであろう「バベルの塔」として知られているこの話は、ノアの子孫の系図に挟まれるように書かれている。もしかしたら、神は、この話を読む人々にノアの子孫が誰であったかということよりも、バベルの塔で何が起こったのかを知って欲しいということなのかもしれない。私の憶測でしかないが。