神は見ている

神はアブラムを祝福し、その子孫を星の数ほどにすると約束をしたが…現実はどうであったかというと、アブラムの妻サライには子供がいなかった。ある時、彼女は夫のアブラムに、サライの召使いであったエジプト人のハガルという女性を妻として迎えてはどうかと言った。今の社会ではまずあり得ないことであるが、どうやら一夫多妻もその当時は選択肢のひとつとしてあったのかもしれない。一夫多妻をどう見るかは人それぞれであろうが、私にして見れば、妻が一人でも十二分にひーひー言ってるのに、これが二人三人になったらどうなってしまうだろうかと、想像するだけでも恐ろしくなってくる…。

それにしても正妻が夫に別の女性をもうひとりの妻として差し出すとは妙なものである。そうするとハガルは今の言葉で言うと内縁の妻とでも呼んだらいいのだろうか。まぁ、ハガルをなんと呼ぶかは置いておくとして、やがて彼女は身ごもった。彼女は自分が妊娠したことを知るや、子供をもてないサライに対する態度が変わってしまった。ハガルは主人であるサライを見下すようになったのである。当然ながら、正妻であるサライはそれを快く思わず、アブラムに訴えた。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。」(創世記16章5節)

しかし、「あなたのせいです」と言われても、こうなることのそもそもの原因を作ったのはサライ自身なのだから、アブラムにとってはなんとも迷惑な話であったろう。アブラムは正妻にこう言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」(創世記16章6節)

自分の好きなようにするがいいと言われたものだから、今度はサライがハガルに対して辛く当たるようになった。やがてハガルは彼女のいじめに耐えることができなくなって、とうとう逃げ出したのであった。サライは喜んだことだろう。

彼女は身重の体で、行く当てもなく荒野をさ迷っていた。ある時、泉のほとりで休んでいると、神の御使いが彼女に現れてこう尋ねた。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」(創世記16章8節)

ハガルは御使いに答えて言った。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」(創世記16章8節)

すると、御使いは彼女にこう告げた。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」(創世記16章9~10節)

そうは言われても、つい先ごろまで自分を傷つけてきた人のところに戻れというのも、なかなか従い難いものである。このまま逃げ続けることもできたであろうが、御使いの「あなたの子孫を大いに増やす」という言葉に期待して、戻っていったのであろう。

さてアブラム、サライ、ハガルの関係を見ていると、人というのは自分勝手なものであることがよく分かってしまう。自分が子供を産めないために、自分の召使を夫に内縁の妻として渡しておきながら、後になってその文句を言い、なぜか夫を責めるサライ、自分には関係のないことと言わんばかりに、我関せずの態度で居直るアブラム、散々主人であるサライを見下しておきながら、いざ自分がいじめの被害に遭うと逃げ出してしまうハガル…よくも神は彼らを祝福して、彼らの子孫を増やすなどと考えたものだと不思議に思ってしまうくらいである。もっとも、私も自分が大事と思うところがあるから、あまり偉そうなことは言えないのであるが。

さて、神は荒野をさ迷うハガルを見つけ出し、御使いを送って彼女にアブラムとサライのところに戻るように説得したという。神が何を御心に抱いていたのかは分からないが、神が彼女に目を留めていたのは確かであろう。さもなければ、彼女は呼び止められずどこかへと消えてしまったに違いない。神は人が好き勝手にどこに行こうとも、何をしようとも、それでも人に目を留めているのであろう。