神の約束

アブラムが九十九歳の時、再び神が現れた。今までの話を振り返ってみると、神は実に頻繁にアブラムのところにやって来ているように思える。羨ましいと言うか何と言うか…。神と言葉を直接に交わすというのは、一体どのようなものなのかと、ついつい考えてしまう。もっとも今日でも神は、聖書や祈りを通じて人々に語り掛けたりすることがあるのだろうが、お世辞にも信仰深い方ではない私には、その感覚がいまひとつ分からない。そうは言っても、創世記に書かれているアブラムと神の会話というのは、今日の信仰者が祈りの中や聖書を読む中での神との出会いというものと比べてみると、大きな違いがあるようにも思える。今の世界における神との出会いというものが五感で直接に体験することのできない霊的あるいは精神的なものであるのならば、アブラムの場合は面と面を向かっての実際の会話であるのだから、どのようなものであったかというのは、正直なところ想像し難い。

もし私が道を歩いている時に、神が私の前に姿を現して「わたしは天地万物の創造主、全知全能の神である。わたしはあなたを大いに祝福しよう」と言ったとしたら、こいつ何者だと思ってしまうに違いない。アブラムがひれ伏したように、神を礼拝することはまずないだろう。おそらく幾度か神を見たことがあるアブラムと、いまだこの目で神を見たことのない私との違いなのかもしれない。神が神であることを疑うことがなければ、アブラムのような態度で神を迎えることができるのだろうが、神の姿を知らぬ私は神を神として信じきることができずに疑ってしまうのだろう。私が不信心であるとは言わないが、まだまだ信仰の度合いで言うならば、未熟なものである。

この時、神はアブラムと約束を交わしたのである。それは彼の子孫が星の数ほどになるという言葉を実現させるために、アブラムの妻であるサライー彼女もアブラムと変わらぬほどの年寄りで年齢は九十歳であったーが息子を産むということを約束したのである。「「あなたの妻サライのことだが、…わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」(創世記17章15~16節)

さすがのアブラムもこれを聞いてびっくりしたようで、笑い出してしまったようだ。しかし、神は怒ることもなく、息子をイサクと名づけるようにアブラムに告げた。

ところでこの日を境に、アブラムはアブラハム、彼の妻サライはサラと名を変えるようにと神は言われた。簡単に言ってしまうと、アブラムという名が意味するものは「気高い父」であり、アブラハムが意味することは「多くの者の父」である。そして、サライという名が意味するものは「私の気高き女性」であり、サラが意味することは「気高き女性」ということになる。神の「あなたの子孫をおびただしくふやし…」(創世記17章6節)という約束が、そのままアブラハムの名となり、「彼女は国々の母となり」(同16節)という約束が、サラの名に表されているかのようだ。

そして遠い先の話であるが、アブラハムの子イサクの血筋からイエス・キリストが生まれることになる。そして、キリストの救いを通して、彼を信じるものが神の子とされるのであれば、我々は神の子であるキリストと兄弟関係となることを考えると…確かにアブラハムの子孫は星の数ほどになるだろう。

そう考えていくと、確かに神の約束というのは必ず実現するものなのである。

神が様々なことを通して我々に語りかけるとき、神が何かを約束をしてくれるのなら、その約束も同じように実現すると信じてもよいのではないだろうか。もっとも、今の私に神が何を約束してくれているのか分からないが。まずは、神の約束を知ることが必要なのかもしれない。

しかし、そんな私でも確かに知っている神の約束がある。それは、キリストを信じているがゆえに、神は私に永遠のいのちを与えてくださるということだ。