神を畏れる

前に訪れた時からさほど日をおかずに、再び神がアブラハムのところにやってきた。今回は今までのどの記述よりも具体的に描かれているのだが、その様子がある意味とても地味というか平凡なので面白い。ある日のこと、まだ日が高い時にアブラハムは家の入り口近くの木陰で休んでいた。暑さに参って少しぼーっとしていたのだろうか、ふと目を上げて見ると少し離れたところに三人の人物が彼の方を向いて立っているのを見つけた。アブラハムは慌てて彼らのところに走り寄ると、是非とも休んで行くようにと頼むと、彼らはそれを受け入れた。その当時は見ず知らずの他人であっても、旅人に対しては手厚くもてなすというのが慣わしであったと聞いたことがある。アブラハムのしたことは当たり前のことであったのだろう。彼は客人たちが足の汚れを落とすための水を汲んでくると、小屋の中に入って、サラに上等の小麦粉でパンを用意するように伝えた。彼自身は肉の柔らかそうな子牛捕まえ、使用人にそれを料理するように命じた。

食事の用意が出来ると、アブラハムは木の下の涼しいところで休んでいた客人のところへ戻ってきた。すると彼らはアブラハムにサラはどこにいるのかと尋ねた。彼はサラが家の中にいると答えた。すると彼らの一人がこう言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」(創世記18章10節)

すでにこの約束を神御自身から聞かされていたアブラハムは黙って聞いていた。しかし家の扉の内側で彼らの会話を聞いていたサラは、声にこそ出さなかったが、内心笑いながら、こう考えた。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記18章12節)彼女の笑いは子供を持てることへの嬉しさや期待から出たものではなく、むしろそのようなことを言った客人を馬鹿にする気持ちと、子供を生むことができない自らへの嘲りから出た笑いであったろう。

サラのこの態度に気付いたその人は、なぜサラは笑うのかとアブラハムに聞いた。ここでは主と書かれているから、その日にアブラハムやサラは気付かなかったかもしれないが、そう言った張本人は神御自身だったのである。他の二人が誰だったのかは、今は気にしないでおこう。

アブラハムが笑った時、神はことさらそれを咎める様子もなかったが、どうやらサラが笑った場合には、少々それが気に障ったようである。神は「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18章14節)とアブラハムに言った。いや、アブラハムに言ったというよりも、サラに聞こえるように言ったという方がいいのかもしれない。彼女は慌てて自分は笑っていないと打ち消そうとしたが、神を欺くことはできなかった。神は彼女に「いや、あなたは確かに笑った」と言った。

神に忠実であったアブラハムに比べると、どうやらサラはあまりそうではなかったようである。アブラハムが神の約束に期待して前向きな態度でいたのに対し、サラはどうだったかというと、物事を否定的にとらえるがちなようだ。エジプト人の召使のハガルが妊娠した時も相手を羨んだり愚痴をこぼしたり、挙句の果てに迫害したこともあった。神の約束を信じたり期待したりすることよりも、自分のことをあれこれと気にしてばかりいるサラに、神は自らが全能であることを知らせたのである。

さて、世の中には信仰を持つ人々は沢山いるだろうけど、アブラハムのような信仰を持つ人もいれば、サラと同じ程度の信仰しか持ち合わせていない人もいることだろう。どちらかといえば、私は後者である。神の言葉に「無理無理、そんなの無理。いくら神でもねぇ」と思ってしまうのである。仲間を増やすわけでもないが、もしかしたら、そのような人の方が多いのかもしれない。しかし、神は御自身で不可能なことは何一つないと言っている。思えば天地万物を創造された神である。文字通り全能の神である。

さらに、サラの不信仰を知ったように、それを疑う人々の心をも見抜くことができるのだ。そのような神に対して畏れを感じないではいられない。