神の忍耐

十分な食事と休息を得た三人組は旅を続けることにした。アブラハムも彼らを見送るために出てきた。彼らはソドムを見下ろす丘の上に立っていた。三人のうちの一人としてアブラハムの所を訪れた神はこれからすることを彼に知らせた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」(創世記18章20~21節)

アブラハムは神の言葉を聞いて、神の心を察したのかもしれない。彼はこう聞き返した。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。…その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(創世記18章23~25節)

神は答えて言った。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(創世記18章26節)

それでもアブラハムは納得しきれなかったようだ。彼は自分自身が質問するような立場にいないことを承知しながらも、神に問うのだった。「それでは、五十人に五人足りない四十五人だったら、あの街を滅ぼすのですか。」

「いや、その四十五人のためにあの街は助けよう。」

「もしかしたら四十人しかいないかもしれません。そうだったらどうしますか。」

「もし四十人いるのならば、彼らのためにも街を滅ぼすまい。」

「しつこいようで申し訳ありません。三十人いたらどうしますか。」

「それでも、その三十人のために街を滅ぼすことはないだろう。」

「では二十人だけだったら。」

「たとえ二十人だけだとしても、その二十人のために街を助けよう。」

「まことに申し訳ありません。これで最後です。どうか怒らずに聞いてください。もし仮に正しい人が十人だけしかいないとしたら、それでもあなたはあの街を滅ぼさずにいられますか。」

「滅ぼすまい。その十人のために。」(創世記18章32節)

アブラハムはようやく納得したのだろう。これ以上は何も聞かなかった。神の前に立ちふさがっていた彼は神のために道をあけると、神はそのまま去って行った。彼も家へと帰って行った。

この箇所を読むたびに思うのだが、果たして正しい人が一人だけだったらどうしただろうか。アブラハムにはそれも聞いて欲しかったのだが…。さて、私が思うに、たとえ正しい人が一人だとしても、神はやはりソドムとゴモラを滅ぼすことをやめたかもしれない。(さもなければ、正しい者を逃してから街を滅ぼしたか。)

わずかな正しい者のために、罪と悪意に満ちた街を滅ぼさないでいようと考える神は、慈悲深いと言うよりもむしろ辛抱強い神という印象を受ける。もっとも、ソドムとゴモラは最後は滅ぼされてしまうのであるが…。おそらく神はその場所に悪意と罪しか見出すことができなかったのだろう。それにしても、今の世の中も多くの罪で満ちているように見える。いや、それ以前に人々の心には多かれ少なかれ悪い思いがあるのだろう。それは人に対する妬みであったり、敵意であったりと様々であろう。クリスチャンである自分自身の内にもそのような思いがあることは否めない。それでも、神が我々を一撃で滅ぼさずにいるということは、神が今は義を追及することではなく、そのような人々に救いを受ける機会を与えることに重きを置いているからなのだろう。神は辛抱強さのおかげで、今の恵みのときがあるのだろう。