神のみこころ、神の哀れみ

アブラハムが百歳の時、神が約束したように、サラが男の赤ん坊を生んだ。彼はその子をイサクと名付けた。聖書には細かいことまで書かれていないからサラがどのように感じ、何を思ったかまでは分からないが、私がこの箇所を読んだ印象としては、サラは子供の誕生を喜んでいるというよりも、神と人々が自分のことを馬鹿にするであろうという何とも否定的というか自虐的というか随分とひねくれた物の言い方をしているように感じられる。それにしても、一年前のこの時期には、彼女自身が神の約束をそんなことがあるわけないと思って馬鹿にしたのである。神に笑われるなどと悲観的なことを言うわりには、自身が神を嘲ったことを忘れるとは…自分に都合が良いというか、ずるい人のように見えてしかたがない。

さてある時、イサクが乳離れをしたことを祝う宴席でのことである。サラに仕えていたエジプト人の召使のハガルの子であり、イサクにとっては異母兄にあたるイシュマエルがイサクのことをいじめてしまった。長いこと待ち望んで、もはや無理とあきらめていた時に生まれた我が子が、召使の子供に虐げられているのを見たサラは怒りを覚えたに違いない。彼女は夫にハガルとその子を追い出すようにと頼んだのであるが、彼にとってはイシュマエルも可愛い我が子なのである。しかも彼にとって最初の子供であったから一方ならぬ愛情を抱いていたかもしれない。そうそう簡単に追い出す気にもなれなかったに違いない。おそらくサラに何度か我慢するようにと言ったことだろう。悩んでいるアブラハムの思いを察したのだろう、神は彼にこのように伝えた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」(創世記21章12節)

神はアブラハムにサラの言うとおりにするようにと告げた。もしかしたら彼は神のことばに疑問を抱いたかもしれない。ハガルはともかくイシュマエルは彼の息子なのである。イサクをいじめたとは言っても所詮子供のしたことに過ぎないのに、なぜ母子を荒野に追放しろと残酷なことを言うサラの肩を持つのだろうかと考えてしまう。しかし神は彼女のためにこう言ったのではない。イサクから出る者がアブラハムの子孫と呼ばれなければならないという計画に神ご自身が従っただけなのである。サラはハガルが追い出されると聞いて、自分の願いが通ったと喜んだかもしれない。しかし、それは違う。神は人によって動かされることはないのだ。

やむなくアブラハムはハガルとイシュマエルを追放するのであるが、旅路で必要になるであろう水と食料を与えると、彼らを送りだした。

しかし、そこは荒れ地である。やがて彼らの皮袋の中の水は最後の一滴すらなくなってしまった。彼女は途方に暮れた。どうすることもできないと諦めてしまったハガルは、息子を一本の低木の下に投げ出すと、彼をそのまま残して立ち去ろうとしたのだった。彼女はしばらく進むとそのまま座り込むと泣き出した。彼女も息子を捨てたくはなかったが、このまま一緒にいても彼女に彼を救うことはできないのは明らかであった。彼女はひとり思った。「私は子どもの死ぬのを見たくない。」(創世記21章16節)

ところが彼らは孤独ではなかった。神は彼らの置かれている状況を見ており、また彼らの嘆きも聞いたに違いない。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。」(創世記21章17~18節)

神はイシュマエルの声を聞かれたという。イシュマエルは何と言ったのだろうか。渇きで苦しみ、最後の救いを求める声であったのかもしれない。そのような声を聞いて、神は黙っていることができなかったのだろう。彼の子孫を栄えさせると神は確かに約束したが、先にそうしたように、約束を成就させるだけのために彼らを助けたとも思えない。

神は人の都合で物事を為す方ではない。しかし、人の心からの苦しみや悩みには答えられる方なのであろう。