神は共におられる

神によって九死に一生を得た少年イシュマエルは、神と共に成長し、やがて立派に成人した。ハガルは故郷のエジプトから息子のために妻を迎えた。サラの憎しみから逃れることができ、彼らはやっと彼らの自身の生活を得たのだった。これはこれで、めでたく一件落着と言えよう。

さて、しばらく前にアブラハムの妻サラを彼の妹だとすっかり信じ切ってしまい、彼女を側室にしようとしたアビメレクという王がいたが、そのアビメレクがアブラハムのところを訪れていた。王は彼に頼み事をするためにやってきたのだった。王はこう言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」(創世記21章22~23節)

アブラハムは王に同意し、そのように誓うことを約束した。しかしその頃、アビメレクの配下にある人々がアブラハム所有の井戸を不当に占拠していたようである。彼はそのことについて、王に抗議した。

アビメレクはそれを聞いて、こう答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」(創世記21章26節)

このことはアビメレクには初耳だったようだ。言い逃れではなく、おそらく本当のことであったろう。アブラハムは所有する羊の群れから七頭の雌の子羊を選び出した。その様子を見たアビメレクは不思議に思い、こう尋ねた。「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」(創世記21章29節)

アブラハムは王に答えて言った。「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」(創世記21章30節)

七匹の雌の子羊であることに何か意味があるのかどうかは分からないが、誰の目にも明らかなことはその目的である。すなわち井戸はアブラハムが掘ったものであり、彼が所有することを証明するためのものだった。今で言えば、井戸のある土地を登記するようなものだろう。やがてアビメレクは自らの国へと帰り、アブラハムはそこに一本の柳の木を植えて、神に祈った。祈りの内容までは分からないが…。

見過ごしてしまいがちなことかもしれないが、おもしろいと思うのは、一国の王であるアビメレクと家長でしかなかったアブラハムが対等の立場で会話をしていることだ。アブラハムにそれだけの権力があったということなのか。確かに彼のもとで働く人々は大勢いたし、所有している家畜も多くいたに違いない。かなりの資産家であったと言えよう。それだけでなく、かつて近隣諸国の王たちに甥のロトと彼の家族が捕らわれた時、助けに駆けつけたアブラハムと彼の部下が王たちの軍勢を打ち負かしたことを考えると、それなりの権力も持っていたことだろう。それだから、アブラハムはアビメレクの前で萎縮することなく対話ができたのであろうか。いや、どちらかというと、アビメレクの方がアブラハムに対して遠慮をしているような雰囲気さえ感じられる。わざわざ王であるアビメレク自身がアブラハムのところに出向いて、自分たちを裏切らないで欲しいと彼に頼んだのである。また、アブラハムの井戸に関する抗議についても、怒ることなければ言い訳をすることもなかった。そしてアブラハムが七匹の子羊を契約の証拠として与えた時も、それにすなおに従った。もしかしたら、アビメレクの耳にかつての神の言葉が残っていたのだろう。「…あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。…あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」(創世記20章7節)

もしかしたら、アビメレクが恐れていたのはアブラハムその人ではなく、彼を支えている神を恐れていたのではないだろうか。神が我々を支えてくださるのなら、何を恐れることがあるだろうか。