試される神

神はまたもやアブラハムのところにやってきた。振り返ってみれば、神はアブラハムに助言を与えたり励ましたりと、何かと良い知らせを告げるためにやってくるばかりだった。ところが、今回は少し様子が違ったようだ。神はアブラハムを試練を与えるために現れたのだった。すなわち彼を試すためであった。神は彼にこう言った。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節)

ひとことで言ってしまうと、アブラハムに彼の大事にしていた息子のイサクを殺せという言っているのである。なんとも残酷なことを言う神である。そのような印象を受けてしまう。まだ私がクリスチャンでもなく、聖書もあまり読んだこともなければ、そこに書かれていることについて知識も乏しい頃に、初めてこの箇所を読んだときはびっくり仰天した。聖書と言ってもせいぜい新約聖書くらいしか読むことがなかったので、神は愛なりということを言わんとしているようなイエス・キリストの教えを考えると、アブラハムのところにやってきた神はとんでもなく性格が違うように感じられた。

さて、アブラハムはそう言われてどのように感じたことだろうか。もし神が私のところに現れて、あなたの愛娘をいけにえとして私に捧げなさいと言ったのならば、私はどうするであろうか。私だったらまずこれは神ではないと、そう言う者を疑うことだろう。そして、その者が神だろうが何だろうが構わずに睨みつけ、さっさとその場を去るに違いない。そもそも、まず私の知るところの神とは、そのようなことを言わない方である。

ところが、アブラハムはそれを実行に移すべく、山に登るための準備を始めたのだった。ここには彼が悩んだとか、苦しんだとか、悲しんだとか、そのようなことは一切書かれていない。しかし、息子を捧げることにアブラハムは胸が張り裂けそうな思いであったろう。なんと言っても、齢百歳にしてやっと授かった我が子なのだから。しかし、それでも彼は息子をいけにえとしてささげろという命令に素直に従おうとしたのだ。そのまま逃げようと思えば、逃げることもできたかもしれない。しかし彼はそうしなかった。いかに辛くことも、彼は神の言ったことに従おうとしたのだ。彼はいけにえを燃やすための薪を集めると、息子にそれをもたせ、自らはいけにえ、つまりは息子を屠るための刀とその肉を焼くための火を手にした。父子はそのようにして山を登ったのである。

今の考え方からすれば、神の言いつけに従って息子を殺そうとするとは、狂信者のなすことに思えてしまうだろう。私自身もそう思うことがあった。しかし、我々とアブラハムには大きな違いがあるのではないだろうか。それは、彼はその人生において幾度となく神と出会い、直接語り合う機会があったということだ。それは、祈りや賛美や聖書を通して神の声を聞いたとか、そのようなものではない。彼はその五感でもって神を感じ、神を知っていたのである。彼にとっては、息子イサクが現実であるのと同様に、神も現実であった。現実の神を否定することも、神から逃れることもできなかったのである。彼は今まで自分を導いてきたのが神であることを知っており、何より最愛の息子であるイサクを彼に与えたのも神であることをよく知っていたのだ。そのような神に逆らうことはできなかったのである。イサクが父アブラハムに従って山を登るように、アブラハムもまた神に対して従順であったのは、そこに神に対する完全なる畏れと信頼があったからだろう。これが神がアブラハム見出したかったものだろうと私は思う。

やがて彼らが目的の場所に着くと、アブラハムは祭壇を造ると、息子を縛ってその上に寝かせた。イサクは驚き抵抗したことだろうが、老齢とは言っても体力のある父親には敵わなかったのだろう。アブラハムがまさにイサクの命を絶たんと刀を上げたその時、声が聞こえた。「アブラハム…あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章11~12節)