祈り続けること

アブラハムは百七十歳でその生涯を終えた。彼はかつて妻サラを埋葬した墓所に葬られた。長く生き、多く旅をし、神と語らい、神と共に歩み、神に大いに祝福されていたアブラハムであった。息子たちに看取られて、彼の最期は穏やかなものであったろうと思う。イサクが家を継いだ後も、神は彼の家を祝福した。神の恵みは、親から子へと受け継がれるものなのだろう。

ところで、イサクにはイシュマエルという異母兄がいた。しかしイサクがまだ幼い時分に、イシュマエルがイサクをからかったということでサラの怒りを買ってしまい、母子共に追放されてしまったのである。母は子を連れて彼女の故郷であるエジプトに住むようになった。神は父アブラハムを祝福したように、その地においてイシュマエルも祝福した。やがてイシュマエルは妻を迎え、十二人の息子を授かった。

さて、その十二人もイシュマエルのように祝福されたかといえば、どうやらそうではなかったようだ。彼らは互いにいがみ合うようになり、争いやいざこざが絶えなかったようである。祖父アブラハムがそうであったのとは違い、彼らは神と共に歩まなかったからなのだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。考えてもみれば、神に忠実であったアブラハムと幼い頃に離別したイシュマエルにとって、神はどこか遠くにいる存在に思えたかもしれない。彼にとっては信仰の手本となるような父がいなかったのであろう。自然、時間が経つにつれて、彼は神から離れていったとしても不思議ではない。なおさらイシュマエルの十二人の息子たちにとっては、神などいるのかいないのか分からない、どうでもいい存在になっていたのかもしれない。どうやら神の祝福はイシュマエルの代で絶えてしまったようである。しかし、なぜ神から離れてしまった彼のことを、神はそれでも祝福したのだろうか。それは、彼自身の信仰というよりも、彼の父の信仰のおかげかもしれない。それというのも神はアブラハムに対して、イシュマエルのことを祝福すると約束したからだ。たとえイシュマエルが神から離れても、父アブラハムと神の間で取り交わした約束があったからこそ、彼は祝福されたのだ。しかし、彼の子孫はその恵みに与ることができなかった。神から離れることは自らに向けられた祝福を逃すかもしれないが、それよりも周囲から恵みを奪うことになってしまうのかもしれない。

では話をイサクに戻そう。彼がリベカと結婚したときには、すでに四十歳になっていた。今の基準から言っても晩婚である。もっともその当時では百歳を超えても余裕で生きている人々がいたことを考えると、それほど遅いということでもないのかもしれない。ところで、リベカは義母サラがそうであったように、不妊であったらしい。そのためイサクは彼女のために祈った。ひと月が経ち、半年が経ち、一年が経ち、二年が経ち、そうこうしているうちにとうとう十年の月日が流れてしまったが、それでも子供に恵まれなかった。やがて二十年が過ぎようかという頃に、ようやく子供を授かったのである。おまけに、双子であったというから、イサクもリベカもさぞかし驚き、喜んだことだろう。

思えば十二人の息子に恵まれたイシュマエルとは大違いである。比べてしまうとイサクはどちらかといえば苦労人のように見えないこともない。神はイサクを祝福したというが、なぜ子供を長いこと授けることはしなかったのだろうか。イサクたちが神に不忠実であったとはとても思えない。信仰の父とも言えるアブラハムに育てられた彼にとってそんなことはあるまい。何しろ二十年間も祈り続けるだけの信仰を持っていたのである。もしかしたら彼の信仰がどれほどのものか試したかったのだろうか。

しかし私はそうは思わない。祈り続けることで人は何を得ることができるのだろうか。祈りの答えだろうか。祈り続ければ、必ず願い求めた通りになる…と言いたいところだが、さすがにそれは神が決めることである。神はそんなに甘くはない。しかし、祈りが聞かれても聞かれなくても、祈ることで人と神との距離は縮まるだろう。神がいっそう身近な存在として感じることができるようになることは、疑うこともない。もしかしたら神は、彼に試練を与えて、それを通して彼の信仰を確たるものとしたかったのかもしれない。