長子の権利

時が満ちてイサクとリベカに二人の男の子が生まれた。さて二人が生まれるとき、先に生まれてきた子のかかとをつかんで二人目が生まれたと書いてあるが、それは本当だったのだろうか。昔はこのような疑問を持つこともなく読んでいたが、自らが二人の子供の父親になって赤ん坊と接したことを思い出すと、ちょっと勘ぐってしまうのである。

確かに赤ん坊というのは、手のひらに何かが触れると反射的に握ると言われている。ちなみに我が子がまだ生まれたばかりの小さい頃に、試してみようと思って手のひらを指でつついてみたことがあるが、どういうわけか、我が家の赤ん坊は何の反応も示さなかったので、興ざめしたことがある。それにしても、先に生まれた子のかかとをつかんで放さないというのは、ちょっと考えにくい。さてこれが作り話なのか、本当にあった話なのか、それとも本当にあったことを少しばかり誇張して書いてあるのか、実際に見たわけではないので何とも言えない。もっとも私は医者でもなければ、双子の父親でもないので、双子というものがどのようにして生まれるのかは皆目見当もつかないというのが本当のところである。いずれにせよ、このような話が載っているということは、おもしろいとか、珍しいという以外に何らかの意味があるのかもしれない。が、それは後々見ていこう。

さて、兄はエサウと呼ばれ、弟はヤコブと呼ばれるようになった。

ところが彼らは成長すると、まるで性格の違う者になったのである。兄は優れた腕前を持った狩人となったというから、もしかしたら荒々しい性格だったのかもしれない。野に起居し、獲物を追いかけ捕らえて生活する様は、男らしく豪毅であるとも言えよう。一方ヤコブはどうであったかというと、そんな兄とは似てもにつかない穏やかな人柄を持っていたようだ。おそらく冷静に物事を捉え、思慮深かったかもしれない。荒野で過ごす時間が多かったエサウとは異なり、彼は家で過ごすことが多かったようでもある。そのためか、父はエサウを愛し、母はヤコブを愛していた。

ある日、ヤコブは母の手伝いをしていたのだろうか、夕食の支度をしていた。すると腹を空かせて戻ってきたエサウは彼にこう言った。

「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」(創世記25章30節)

一日外を駆け回って体も疲れ、腹も減っていたことだろう。その気持ちはよく分かる。私も仕事が終わって家に帰ると、エサウのように言いたくなるものだ。「腹減ったー。何か食うモノある?」ちなみに、我が家では最近は豆腐と蒸し野菜くらいしか出てこない。

さて、ヤコブは兄が食べ物を求めた時に、それをただで提供しようとは思わなかった。何らかの見返りを求めたのである。ここがヤコブの読みが深いところというか、小賢しいところである。彼は兄にこう言った。「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」(創世記25章31節)

エサウも目の前にある食事の方が、何の役に立つのかも分からない長男としての権利よりも幾倍もありがたいものと思ったのだろう。「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」(創世記25章32節)

結局エサウはヤコブにパンと豆の煮物と引き替えに長子の権利を譲ったのだ。

目先のことに捕らわれて長い目で物事を考えないと、大切な物をいとも簡単に無くしてしまうことになるということか…。ましてやエサウが手放した長子の権利というのは、生まれつきのものである。誰かから与えられたものではない。彼が先に生まれたという事実に基づいての権利である。そしてそのような事実を作り出したのは他ならぬ神ご自身である。エサウの長子の権利とは、神から与えられたものと言っても良かろう。それだけのものを無造作に投げやるとはエサウも愚かと言えよう。

ところで我々にも神から与えられたものがあるのではないだろうか。それが何かは人それぞれかもしれないが、目先のことに惑わされることなく、神が下さったものを手放すことのないようにしたいものだ。