神から祝福されること

イサクたちが豊かになるにつれて、土地の人々は彼らを妬むようになってきた。そう書いてしまうと、まるでペリシテの人々が悪人であるかのように思われてしまうが、しかしよく考えてみればこれは誰でも身に覚えのあることではないだろうか。人はいつの時代でも誰かが自分よりも良いものを持っていると、相手を羨んでしまうものである。ところがペリシテ人というのは少しばかり嫉妬心が強かったのか、性格が悪かったのか、イサクたちが使っていた井戸を埋めてしまった。イサクと自分の民が争いが起きることを恐れたのか、アビメレクはイサクに立ち去るようにと願った。ところでアビメレクはイサクに手を出すものは罰すると国民に告げたばかりであるのに、イサクたちの財産である井戸を使えなくしてしまった人々を捕らえた様子はなかった。王はイサクに直接手を出してはいけないという意味で言ったつもりだったのだろうか。まぁ、そう考えられないこともないかもしれないが、普通に考えたらそんなこともないだろう。もしかしたら、王は国民の機嫌を取りたかっただけなのかもしれない。そう考えてみると、どうもこのアビメレクという王は弱気なように思える。だからといって、彼のことを悪く言うこともできまい。我が身が大事であるために、大衆を敵に回すようなことをしたくはないと考えるのは、やはり人の持つ弱さというものなのだろう。

やむなくイサクたちはその土地を手放すことにした。これで一件落着したかと思えば、そうでもない。再び井戸を掘ると、またもやペリシテ人たちがこれは自分たちのものだと言いがかりをつけてきた。さすがに二度目となるとイサクの部下も堪忍できなかったのだろう。ちょっとした小競り合いがあったようである。騒ぎを広げることを嫌ったのか、イサクたちは場所を改めて井戸を掘りなおすことにした。ところが、そこでもペリシテ人たちの邪魔がはいった。二度あることは三度あると言うが、その通りになってしまった。三度嫌がらせを受けたイサクとその一党であったが、ようやく四度目にしてペリシテ人から嫌がらせを受けることなく暮らせるようになった。それにしてもイサクはよく辛抱強く耐えたものである。彼の経済力を考えたら、ペリシテ人に対抗することもできたであろうし、アビメレクに対して不正を訴え出ることもできたであろうが、彼は辛抱するだけであった。消極的な態度と言ってしまえばそうかもしれないが、どうやらそれだけではなさそうである。イサクのの気持ちはこの言葉に表れているようだ。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(創世記26章22節)

イサクは神が安住の地に導いて下さるであろうことを信じていたのだろう。

ある晩のこと、神がイサクの元に現れてこう言った。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」(創世記26章24節)

そしてイサクは祭壇を拵えて、神に感謝の祈りを捧げたのだった。

さてそれからしばらくして、アビメレクと彼に仕えている将軍がイサクを訪ねてやってきた。おそらくイサクは彼らの来訪を不審に思ったことだろう。彼らはイサクと和解をするために来たのだった。

それにしてもアビメレクたちはなぜイサクと和解しようとしたのだろうか。何が彼らを動かしたのか。聖書を読む限りでは、神が災いをもたらしたとも奇跡を行ったとも書かれていない。ただ神がイサクを祝福したということだけが書かれている。すなわち、彼らが目撃したのはそれだけのことなのだろう。しかし、それが一番彼らの印象に残ったことなのかもしれない。イサクは幾度もペリシテ人から嫌がらせを受けたにも関わらずじっと耐えた。そんな彼の態度と、その後祝福された彼の姿を見て、イサクの神が現実であることに気付いたのかもしれない。イサクと和解するということは、すなわちイサクの神とも和解することであるとアビメレクたちは考えたのだろう。

もしかしたら神から祝福されることほど、人々に印象を与えるものはないのかもしれない。多くの言葉や行いで神を伝えるよりも、神から祝福されることが神が誰であるかを伝えるには優れているのかもしれない。もっとも神から祝福されるには、神を信じることが肝心なのだろう。