天の門

父親から祝福を受けた一方で、兄から恨みを買ってしまったヤコブは、母親の実家を頼って逃げることとなった。彼が逃げる前に、イサクは彼に忠告をひとつばかり最後に与えた。それは、彼らが今滞在している土地の娘と結婚してはならないということだった。そして、母の兄であるラバンの娘と結婚するようにという内容であった。つまり彼の従姉妹でもある女性と結婚しなさいとヤコブは言われた。その言葉を受けてヤコブは去って行った。

これを知ったエサウは、自身が土地の娘と、しかもひとりではなく二人と結婚したことを後悔したのかもしれない。ようやく彼は、父がそれを快く思っていないことに気付いたからだ。もしかしたら、これが父の不興を買うこととなり、祝福を与えられなかったのかもしれないと思ったかもしれない。時ここに至っても、彼は父から祝福を受けようと考えていたようだ。なぜなら、エサウもまたイサクがそうしたように、親戚から嫁を迎えようとしたのである。彼は父の兄にあたるイシュマエルのところへ出掛けて行った。そして、彼も従姉妹にあたるイシュマエルの娘と結婚するのであった。果たしてこれをイサクがどう思ったのかは聖書に何とも書かれていないので分からない。それにしても、エサウというのは単純な男である。しかし人というのは、エサウに限らず、恵まれた人の真似をしたがるものなのかもしれない。何も真似ることが悪いことだとは言わないが、だからと言って、人は祝福されるわけでもないだろう。なによりエサウがその後どうなったかが書かれていないから、まずまず彼が弟と同じように祝福されたとは考え難い。

結局のところ、人と比べて自分も人と同じように恵まれようなどと考えること自体、意味のないことなのかもしれない。確かなことは、人は神がそう望む時に、その人を祝福するということなのだろう。そう言ってしまうと、神のみこころに人は振り回されなければならないのかと考えたくなってしまうし、実際そうなのだから文句を言っても始まらない。

さて、旅の途中のある晩のこと、ヤコブは手頃な大きさの石を見つけ、それを枕に眠りについた。そして夢を見た。何とも奇妙な夢で、天と地を結ぶはしごがあり、神の御使いがそれを上ったり下りたりしていたという。そして神御自身がそばに立って彼にこう言った。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28章13~15節)

驚いて目を覚ましたヤコブは誰に言うとでもなく、一人声を出して言った。「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。…この場所は、…神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28章16~17節)

そして彼は枕にしていた石をその場に立て油を注いだ。おもしろいことをするものだと思うが、当時の彼らの習慣では、油を注ぐということは、すなわちその物なり人を神聖なものとして、他の物と区別をすることを意味した。すなわち、前日までは何の意味も重要性も持っていなかった石とその土地が今朝から聖なる場所となったのである。それもそうだろう、彼はこの場所を神の家、天の門と思ったのだから。天から地に向かってはしごが伸ばされているというのが、果たしてどのようなものだったのか。想像してみるにかなり壮観だったろう。天の遙か彼方から地上に向かってはしごがおりているとは。その足下に立って上を見上げて見れば、はしごの先が見えないくらい遠く天まで続いているのである。そして、そのはしごを上れば天にたどり着けると考えてみれば、何となく嬉しい気分にもなれよう。しかし、現実にはヤコブのはしごはない。彼の夢の中だけのことである。だからと言って、天の門というのがまったくないというわけでもない。それが何であるかはここには書いていないが、その答えは新約聖書の中に見出すことができるだろう。しかし、それを見つけた人にとっては、それがその人にとっての最大の祝福であろう。たとえ隣の芝がどれほど青く茂っていようとも、その祝福においては誰に負けることもないに違いない。