耐え忍ぶこと

ようやく故郷のそばに住むことができるようになったヤコブとその家族であった。

今までの苦労が報われ、何事もなく平穏に日々が過ぎていくかのように思われた。ところが、残念なことにそうはいかなかった。ある日のこと、ヤコブの娘ディナが近くにある村に友人を訪ねて行った。彼女は以前も何度かその村を訪れることがあったのかもしれない。いつの頃からかその村の有力者の息子シェケムが、彼女に恋心抱くようになった。たまたま彼女が友人に会いに行くのを見掛けたシェケムは、彼女を力ずくで捕らえて、彼女を辱めてしまった。事情を知ったシェケムの父はヤコブと話し合おうとやってきた。しかしヤコブはどうするべきかを考えていたのだろうか。ただ沈黙を守るばかりであった。

ところが、話を聞いたヤコブの息子たちは、シェケムに対して怒りを燃やすばかりであった。彼らの怒りは収まるところを知らず、ますます激しくなるばかりであった。とうとう彼らは策略をめぐらし、シェケムと彼の父、そして彼の村に住む男たちを騙まし討ちにし、ことごとく殺してしまった。そして、彼らの家畜や穀物や金銀などの財産を奪い、また女子供をさらってしまった。

ところが、ヤコブの息子たちは父に何も知らせていなかったのだろう。ヤコブは何が起こったかを知ると、次男のシメオンと三男のレビに言った。「お前たちは一体何と言うことをしてくれたのだ。おかげで私はこの土地の人々から恨まれるようになってしまったではないか。私にはそんなに多くの人がいないのだ。連中が私たちを殺そうと思えば、そうすることもできるではないか。」

しかし、彼らは後悔し反省するどころか、開き直ってこう聞いた。「あの子が辱められても構わないとでも言うのですか。」

ヤコブはそれに対して何と答えたのだろうか。聖書にはそこまでは書かれていない。もしかしたら、何も答えることができずただ黙っていたのかもしれない。

ヤコブの息子たちを残虐と言うこともできようが、彼らの言い分は間違ったものでもないように思える。身内がひどい目に遭わされたのだから黙っているわけにもいくまい。当然の心情であろう。さて、ヤコブの息子たちについては今まで何も書かれていない。どのような性格であったかは何とも想像の域を出ないが、ことさら凶暴な性格の持ち主であったとはとても思えない。それでは何が彼らをこのような非情なまでの復讐へと駆り立てたのだろうか。私が思うに、それはシェケムに対する怒りであったろう。彼らは怒りのゆえに我を失い、暴発してしまったのかもしれない。

そう考えてみると、怒りというのは大変に厄介なものである。いや、厄介と言うよりも、むしろ危険極まりないものと言えるだろう。怒りに身を委ねて我を見失ってしまうと、人はどのような暴挙にでるか知れたものではない。ヤコブの息子たちのしたことは、確かに残酷であった。だからといって、彼らが特別であったというわけでもない。人は誰しも、思いもよらぬことをしてしまう可能性があるということなのだろう。

それはそうと、ヤコブたちはまたもや自分たちの住処を手放さなければならなくなった。彼がどこに行くべきか悩んでいると、神が彼にこう語りかけた。「べテルへ行き、そこに住みなさい。」

べテルとはヤコブが兄から逃れる旅の途中、夜眠っている間に幻を見た場所である。彼にとってはおそらく感慨深い場所であったに違いない。なんとか難を逃れて、無事にべテルにたどり着いたヤコブはその場に神を礼拝するための祭壇を築いた。神は彼を祝福し、彼の子孫が大いに栄えることを約束した。

しかし、その一方で彼は最愛の妻ラケルを難産のために失い、また父イサクを老齢のため失うこととなった。

どれほど神が人を祝福し、その将来を約束しようとも、すべてが都合よく運ぶというわけでもない。しかし、だからと言って怒ってはならないのだろう。時にはじっと耐えることも必要なのかもしれない。信仰を持つということは、忍耐力を試されることなのかもしれない。