神の御心、神の哀れみ

そもそもヨセフが兄たちに疎まれることになった原因の一つは、彼の見た夢だった。彼が兄たちを支配するようになると、そう意味するかのようなヨセフの話に、腹を立てたのだ。それから何年か経ち、紆余曲折を経て、ヨセフは王に等しい程の権力者となった。とは言っても、兄たちはまだ彼に膝を屈めてはいない。しかし、ヨセフの夢の解釈は的中することが多い。それというのも神御自身がまず彼に解き明かすからだった。

神は不思議をなされるお方であることを忘れてはなるまい。そして神は一度始められたことは最後までやり遂げるお方なのだ。

さて、ヨセフが王に言った通り、エジプトと付近一帯は飢饉に見舞われた。ヨセフの家族が住むカナンの地も同じだった。ヤコブは息子たちにエジプトから食べ物を買い入れるようにと言った。そして彼らはエジプトに向けて出発した。ところでヤコブは末っ子のベニヤミンを行かせなかった。それというのも、彼はヨセフを失った悲しみからまだ立ち直っておらず、この上何かが起こって末の息子まで失うことを恐れたからに違いなかろう。

エジプトに着いたヤコブの十人の息子たちは、彼の地の大臣の前に平伏して、食糧を売ってくれるようにと願い出た。ヘブライ人たちが自分の兄たちであることはすぐに分かったが、ただ黙っていた。ヨセフは声を荒げて彼らに問うた。エジプトの内情を調べるためにやってきた密偵ではないかと。彼らがそれを懸命に打ち消そうとして、自分たちがカナンの地に住む十二人兄弟であることを説明した。そして末の弟は父の元に置いてきたと言った。もっともヨセフは弟のベニヤミンがいないことに最初から気付いていたに違いない。故郷で無事に暮らしていることを知って安心したが、弟に会いたいと願う心の中は穏やかでなかったろう。

大臣が誰であるか見当もつかない彼らは、どのような目に遭わせられるかと不安に思っていただろう。このままあらぬ嫌疑を掛けられて、捉えられるかもしれない。運が、いやむしろ大臣の虫の居所が悪ければ、故郷の誰にも知られることなく殺されてしまうかもしれない。ところが大臣は食糧を与える変わりに、彼らに本当に弟がいるのならば、彼を連れて戻ってくるようにと命じた。そうすることで身の潔白を示さねばならなくなった。

なぜヨセフこのような態度で兄たちに接したのだろうか。彼らの過去の罪を清算させようと思えば、なんとでも好きにすることができたはずである。生かすも殺すも彼の自由だった。しかし、ここで彼らに復讐しては父や弟や故郷の家族が飢えで苦しむことになる。

ヨセフは彼らに身の潔白を示すようにと命じた。しかし、彼の真意は違うところにあったのかもしれない。彼らが約束を守って、ベニヤミンを連れてくるか、それとも残されたひとりを見捨ててしまうのか。かつてヨセフを捨てたように、もう一人の兄弟を理由は違えども、見殺しにしてしまうのか。彼らが同じ過ちを繰り返すのか、それとも心を入れ替えたのかを見極めようとしたのかもしれない。またヨセフは食糧の代価の銀貨を密かに彼らの荷物に紛れ込ませて返した。身内が困っているときに、金品との引き換えで彼らの必要を満たすことに抵抗を覚えたのかもしれない。兄たちがその銀貨を正直に申告するかどうかで彼らの欲深さを測ろうとしたのかもしれない、などと勘ぐってみるが、それはさすがに私の考え過ぎと言えよう。かつての仕打ちを思い出すと、憎いと思うこともあるかもしれないが、それでも懐かしい兄たち、兄として可愛がっていたたった一人の弟のベニヤミン、老いた身で飢饉に苦しむ父親、ただただ彼らに同情しただけだろう。

身ぐるみはがされて奴隷として売られたヨセフを顧みて、ここまで祝福して下さった神がいた。神が共に歩んだから、彼は過去に対して苦い思いを持たずに済んだのかもしれない。彼にとっては、その日その日が神との二人三脚であったのだろう。ヨセフの心を日々平安で満たしたのも神だろう。彼には自分を殺そうとまでした兄たちを哀れむ余裕さえあった。ところが、兄たちは何年も経った後も、ヨセフに対する罪の意識にさいなまされていた。ヨセフにしたことの故に、このような目に遭っているのだとさえ考えていた。

神を信じ、神と共に歩むことで、人はどれほど自らの苦しめるものから、守られるのだろうか。神は人が担いきれないような重荷を、人に負わせることはないのである。