神の示す道

兄弟たちと再会したヨセフの喜びの声は、席を外していた人々にも聞こえたに違いない。噂は瞬く間に広がり、エジプト王の知るところとなった。王はヨセフに家族を呼び寄せることを認めた。そればかりか、食料そして乗り物も提供してくれた。

カナンに戻ってきた息子たちに、エジプトでの一部始終を聞かされたヤコブは、ここ何年間も見せたことのない顔を息子たちに見せたことだろう。

ところでヨセフには一人の父親、十人の兄、一人の弟がいた。それに兄たちにも家族がいたであろうことを考えると、彼の一族とは結構な人数であったに違いない。事実、聖書にはその人数が七十人であったと記録されているのだ。それだけの人が移動するとなれば色々と入り用となるだろう。ただでさえ食べ物が少ない時期に、七十人が旅をするための食料と言ったら半端ではないに違いない。

おまけに兄弟たちの父親はかなりの高齢であろう。それだけならまだしも、足腰を痛めてまともに歩くことすらできなかったのだ。家畜の背に乗ってくることもできただろうが、かなり体に響いたことだろう。そんなヤコブにとって乗り物が備えられたとは、まことにありがたいことだったろう。

食べ物や乗り物をヨセフたちに与えたのはエジプト王であったが、本当は神が備えてくれたのだろうと私は思う。神は人の必要を満たされる方であれば、様々な方法でそうされても不思議ではない。

ヤコブたちがエジプトに向けて旅を続けていたある晩のこと、神がヤコブの夢に現れた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」(創世記46章3~4節)

いくら息子に会えると分かっていても、さすがに年老いた身で、慣れない土地に移り住むということに、ヤコブは不安を覚えたことだろう。善し悪しや好き嫌いは別として、人は一つ所に長いこといると、妙に慣れてしまうものである。

神はヤコブの抱いていた恐れと不安を取り除こうと、彼を励まそうとしたのかもしれない。神の言葉を聞いて、彼は神が導いてくださるということを改めて確信したことだろう。夜が明けると、ヤコブたちはエジプトへ向けて旅を続けた。

やがて一行はエジプトの手前のゴシェンという地にたどり着いた。またヨセフも家族に会うべく、エジプトから駆けつけたのだった。とうの昔に死んだと思っていた息子とようやく再会を果たすことができたヤコブは、彼を抱き寄せた。「お前にまた会えたのだ。まだ生きているうちに。今死んだとしても、何も思い残すことはない。」

ヨセフも父の首にすがり、涙を流して再び父と一緒になれたことを喜ぶのだった。

家族との再会を喜び、ひと段落した頃、ヨセフは彼らに言った。「私は今からエジプトに戻って、皆さんが来たことを王様に伝えましょう。また、皆さんが羊飼いであり、家畜を飼う人たちであることも言っておきます。ですから、もし王様が皆さんに仕事は何かを聞くことがあれば、羊飼いであることを伝えて下さい。」

ヨセフは急ぎエジプトへ戻り、家族が到着したことを伝えた。また兄弟から五人を選び、王に引き合わせた。彼らはそこで、ヨセフに言われた通りのことを伝えた。「私たちは先祖代々羊を飼う者です。カナンの地が飢饉により、羊を飼うための牧草が不足しております。どうかゴシェンの地に住まうことをお許し下さい。」

王は彼らの要求を承諾し、家族をゴシェンの地に住まわせるようにとヨセフに伝えた。

神の御心に従って歩むのであれば、必要なものはすべて備えられるということなのかもしれない。それが目に見えるものであろうと、目に見えないものであろうと、神は様々な方法で私たちに与えて下さるのだろう。私たちは、ただ神の示す通りに歩めば良いだけなのではないだろうか。