私たちを導く神

ゴシェンの地に移り住んでからも、ヤコブとその一族は子孫を増やし、やがて多くの富を得るようになった。もとよりヤコブは相当エジプトへ来た時、すでに百三十歳であった。十七年経った頃、とうとうヤコブは病で倒れてしまった。知らせを聞くが早いか、ヨセフは二人の息子を連れて父を見舞いにやってきた。枕元に立つヨセフに、ヤコブは神から与えられた祝福について語って聞かせた。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』」(創世記48章3~4節)

おそらく彼は自らが受けた祝福と同じものを最愛の息子に与えようと思ったのだろう。神の約束、神の恵みはこうして親から子へと受け継がれるということなのかもしれない。ところで、なぜ長男のルベンではなく、下から二番目のヨセフにこのような祝福を与えたのだろうか。ヤコブが息子たちの中で彼を一番愛していたというのは分かっているが、それだけだろうか。考えてみると、それだけではないような気がする。

そういえばヤコブにも双子の兄であるエサウがいた。彼らの父イサクは兄のエサウを愛し、彼を祝福しようとしたが、エサウのふりをしてやってきたヤコブに祝福を与えてしまったのだ。ヤコブと彼をそそのかした母親がずるいと言えないこともないが、そもそもの原因は思慮の浅いエサウにあった。それを考えると、神の約束を受けるのは、それをないがしろにしない人物なのかもしれない。

その後、ヤコブはヨセフの二人の息子も祝福した。そして彼は最期の言葉を与えんと十二人の息子を呼んだ。彼らにこれから起こることを伝えるためであった。これは、ヤコブ自身の考えというよりも、薄れゆく意識の中で神が彼に示したものかもしれない。さもなければ、人に将来を知る力はないのだから。ところで別れの言葉というと、何やら聞き手を励ましたり、勇気づけたりすることを連想してしまうが、どうもそんな様子ではなかった。長男のルベンは「お前は私の妾と不倫をしたから、影響力を失うだろう」と言われたし、シメオンとレビは「怒りにまかせて人を殺し、故に散らされてしまう」と言われた。ヨセフの大事な弟のベニヤミンにしても「飢えた狼のように、朝に夕に獲物を襲い、その肉を貪る」と言われる始末である。その一方でユダは「兄弟たちにあがめられ、諸国の民が従うようになる」と言われ、ヨセフは「神が助け、神に祝福され、神に強められる」と言われた。これを聞かされた十二人はどう感じたことだろう…。もっともこれは彼ら自身のことを示して言われたことではない。何年も後に、彼らの子孫が増えてからのことである。

すべてを語り終えた後、ヤコブは息子たちに自分を父祖と同じ墓に入れるようにと命じた。そして、彼は息を引き取った。

ヤコブの葬儀はカナンの地で七日間に渡って行われた。親族だけではなく、エジプトの高官や、王の家臣も参列した。それを見たカナンの人々の語りぐさとなったほどだ。

父の亡き後、兄弟たちはヨセフが態度を変えて、自分たちに復讐をするのではないかと不安を感じるようになった。そこで、父が生前言っていたと言って、自分たちの罪を赦すようにと乞うた。ヨセフは兄たちに言った。「心配することはありません。確かに兄さんたちは悪いことをしたかもしれませんが、神様はそれを良いことへと変えて下さったのです。そのおかげで、多くの人々の命が救われたではありませんか。」

ヨセフは百十歳になるまで生きた。死ぬ間際、彼は兄弟たちに言った。「神は必ず皆さんを約束の地へと導いて下さいます。どうかその日が来たら、私の骨をエジプトから一緒に持って行って下さい。」

神がエデンの園にアダムを誕生させてから約二千百年(私の数え方が間違ってなければ)、神は常に人々と共にいた。いかなることが起ころうとも、たとえそれが悪いことのように見えたとしても、神は必ず私たちを約束の地へと導いて下さるのだ。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ…。他にも多くの人々を励まし、力を与えた神は、今も変わることなく、私たちをも導いて下さるのだ。私たちはただ神の約束を信じていればよいと、私は思う。