地上を歩いた神

十月も半ばである。朝の空気が澄み、会社に行くときに自宅のあるマンションの建つ丘の上から、東京湾に浮かぶ海ほたるをくっきりと眺めることができる季節になってきた。今年もしばらくすれば「去年」になりそうなところまできている。。気付いてみれば私も三十三歳になる。時間が経つのが遅く感じられる時もあったが、振り返ってみると、あれよあれよと言っているうちに今に至ったように感じる。

今から十年とちょっと前に、アメリカに留学している時、ふとしたきっかけから(そうとは知らずに)クリスチャンと出会い、聖書と出会い、そしてやがては天地万物の創造主である神と救い主であるキリストと出会い、私自身がクリスチャンとなったのは、まだ二十歳の頃であった。あの頃を思い出すと、様々なことが思い出される。そして目を閉じると、その頃の情景、音、香りを五感で感じることができるかのように錯覚してしまう。あたかも十三年前のシアトルまで時間を遡って旅をしているような気分になる。

数えてみれば、私は十三年間もクリスチャンをやっているのである。十三年間というと、小中高と私が教育を受けた期間よりも長い。真新しいランドセルを背負って小学校に初めて登校した小さな男の子が、無精ひげを生やす青年になるために要する時間に匹敵する。つまり、それくらい長い間、私はクリスチャンをやっていることになる。改めて考えてみると、もうそんなになるのかと、自分のことながら驚かずにはいられない。

そして今、クリスチャンとして私はどれほど成長したのであろうかと、自らを省みると、果たして過ごした時間に見合った程度の成長を遂げたのかどうか、よくわからなくなる。そもそも、クリスチャンとしての成長とは何を意味するのだろうか。それは私が自分ではかることができるものなのだろうか。そこからして抽象的で曖昧な考え方なので、ここからはキリストとの距離、神への依存度という尺度で信仰者としての成長をはかってみることにしよう。

するとどうであろう。正直、今の自分を見ていると、成長というよりも衰退してきたかのようにさえ感じられる。たしかに、あるところまでは成長を続けてきた。昔は聖書を毎日欠かすことなく読み、さまざまな思いを巡らし、気になることを追求し、人から多くを教えられ、わずかであったかもしれないが人に教え、共に学びあうこともあり、真剣に祈ることもよくあった…いつまでそのような時期があったであろうか、思い出すことができない。それはクリスチャンとしての衰退はある日突然始まるものではないからだ。気付いてみたら、視線が神から逸れてしまっているのだ。だからと言って、特に何かを見ているというわけでもない。ある日曜、教会に行ってみると、最後に聖書を開いたのは前週の礼拝の時だったと気付かされる時があり、最後に神と向かい合い、祈りを捧げたのがいつだったか思い出せない時があり、そのようにして徐々に信仰心が薄まっていくのに気付かされるのだ。まさしくそれが十三年経った今の私の姿である。

しかし、私はそれを損とは思わない。後悔もしていない。

ある夜、周囲が寝静まった後、ひとりで音楽を聴きながら、ぼんやりとアメリカで過ごしていた頃に思いを巡らす時、初めて聖書を開いた時のことを思い出したからだ。聖書はいつでも私の手の届くところにある。すなわち神の語ることに耳を傾けたければ、それは直ぐそこにあるのだ。私の信仰が如何に揺るいだとしても、聖書を通して語る神のことばに揺るぎはない。二千年もの間変わらぬ神のことばは十三年前と今でも同じように私に語りかけるだろう。私が初めて聖書を手にした時、最初に開いたのはヨハネの福音であった。今、同じ箇所を開こうではないか。