地上を歩いた神 2

私はヨハネの福音の冒頭部分が好きである。なぜかというと、ヨハネの福音の始まり方が、聖書に精通していなかった私でも分かるくらいの明瞭さで、旧約聖書の最初の書、すなわち聖書全体における第一の書である創世記の出だしと類似しているからである。もちろんヨハネがこの福音を書いた時代おいて創世記はすでに世に長い間存在しており、ヨハネがそれを読んだであろうことは容易に想像がつく。であるから、両者が似通っていることに何の神秘性もなければ、摩訶不思議な点も何もない。にもかかわらず、それが私の興味を惹くのである。

創世記の始まりは、神が如何にして世界を七日間で創造されたかが書かれている。実際にそれが文字通りの七日であるのか、それとも神にとっては千年も一日に等しいというぐらいだから、一日が千年としての七日、つまり七千年なのかは、私には分からない。分からないし、どうでもいいと言えば、どうでもいいことのようにも思える。肝心なことは、無の状態から神が森羅万象を創られたということだ。さて、それを証明することはできないので、そうであると信じることが信仰なのであろう。そう言ってしまうと、非科学的であるというのは否定できない。しかし、いかなる学説をもってしても世界の起源を実証することができないのであるから、科学の顔を持ってはいるものの、すべては信仰であるのかもしれない。が、それは今はいい。

さて、ヨハネの福音はどうであるかというと、確かに神が世界を創られたことを書いている点においては創世記と同じであるが、ここでは何日間要したとか、何をいつ創造されたとかについては書かれていない。もっともヨハネにしてみれば、何を今更同じことを繰り返す必要があるのだろうかと、考えたのかもしれない。そして、それ以上に伝えたいことが他にあったのかもしれない。もっともそれは私の憶測でしかないが…。

それでは、ヨハネは何を伝えようとしているだろうか。いや、難しく考えるのはやめよう。なぜ私がこの最初の箇所が好きであるかについてもっと述べるとしよう。

さて、ヨハネの一節を読むと「ことば」について書かれている。ここには「ことば」がまず最初にあり、その「ことば」は神とともにあり、また自身も神であると書かれている。そしてすべては「ことば」によって創造され、「ことば」に拠らずして存在するものは何もないと書かれている。そして「ことば」は姿かたちをもつ人となり、人々の間に住まわれたとヨハネは語っている。ここまで読み進めていくと、イエス・キリストのことを指して「ことば」と呼んでいることが分かってくる。つまり、神でもあるイエスは、この世界を創った方なのである。創世記に記されているように七日(もしくは七千年…どちらでも大差ないだろうが)で、宇宙に輝く天体、地上のあらゆる風景、この世に住まうすべての生き物を創られたのである。ここに創造者としての力と権威と知恵に満ちたキリストの姿を見出せるのだ。畏れを感じて当然であろう。確かに、クリスチャンになる前はこのようなことをなせるキリストを私は怖いと思ったくらいだ。

キリストというと慈愛に満ちた救い主という印象が強いが、ここに異なった一面を見ることが出来る。病に苦しむ人を助けるその手は、表面温度が六千度にもなる太陽さえをも創られたのだ。神は人に病を癒すのに必要な知識と思いやりを備えてくださったが、太陽を造るだけの能力を与えられていない。すなわち人にある限界がキリストにはないのだ。

それが聖書を通して私が出会ったイエス・キリストの最初の姿なのである。そのようなイエスに対して、正直私は恐れを覚えた。しかし、なぜそのようなキリストがわざわざ人として、二千年前のイスラエルに来る必要があったのかを不思議に思ったものだ。が、それは後々考えていくことにしよう。今日でも、イエスは私にとって救い主であることに変わりはないが、畏れて然るべき全能の神でもあるのだ。