地上を歩いた神 3

キリストがその弟子と共に結婚式に招かれた時の出来事が二章に書かれている。なるほど神である「ことば」が人々の間に住まわれたと一章に書かれているが、まさしくその通りではないか。もっとも、彼らを招いた人たちにしてみれば、イエスはヨセフとマリアの息子、村の大工という具合でしか見ていなかっただろう。イエスの母親もそこにいたというが、まさか自分の息子が神の子であろうとはよもや考えてもいなかったであろう。おそらくイエスと共にいた弟子が、なんとなくイエスは普通の人ではないことに気付いていたかもしれない。とは言っても、凡人ではないイコール神の子という考えには至っていなかったであろう。今のように福音書があるわけでもなし、当然のことだ。

さて、めでたい結婚式と披露宴の場である。イエスもそこに集まった人々と一緒に食えや飲めやで、楽しんでいたことだろう。何も宴席で難しい説教をするほど偏屈で野暮な方ではなかっただろうと私は思う。少なくともそのようなことがあったとは一言も書かれていないので、私の想像するところと事実は異ならないだろう。ところが、ここで問題が起こったのである。一言で言うと「酒がなくなった」のである。せっかく盛り上がっているのに酒が底を尽きたので、主催している側は焦ったに違いない。幹事をやったことがあれば誰でも分かるだろうが、食べ物を切らしても、酒を切らすことは許されないのである。食べ物がなくなっても文句を言う人は(私のような例外を除いては)あまりいないが、酒を切らしたら文句を言う人は必ずいるものだ。「ラストオーダーです」と店員がいうと、ここぞとばかりにあれこれ注文する光景は珍しくあるまい。というわけで、話があらぬ方向に向いそうだが、披露宴の最中に飲み物がなくなったのである。それとなく気付いたイエスの母親は息子に何とかならないものかと相談したのである。人によってはここに神学上の深遠なる意味を見出そうとするかもしれないが、宴会の最中に酒がなくなったら一番身近な人に「どうしよう?何とかならないの」とこぼすのはごく自然なことではないだろうか。この時イエスは「何を期待しているんだ。まだ私の時はきていないんだよ」と答えたとある。意味深な返事ではあるが、その場でそれを聞いた母親が何を考えたかは分からない。もしかしたら「何を戯けたこと言ってるんだか、この子は。そんなこと言ってないで、仲間を連れてさっさとワインを工面しておいで」程度にしか考えていなかったかもしれない。

ところで、イエスは何をしたかというと―ここから先が私の好きなとこなのであるが―まず、召使に水を用意させたのである。当然ながら水といえば透明で味もない。イエスの時代では水といえば井戸で汲んでくるものであっただろうから、家まで水瓶を運ぶことを考えると、労働力という形で価値というか、有り難味があったかもしれない。とはいっても水は所詮水でしかない。それで手や足を洗うことを考える、祝宴の飲み物としては相応しくないに違いない。しかし、イエスは水を欲したのである。はたして、言いつけられた人々がイエスの行いを訝しげに思ったかどうかはわからないが、言われるがままにしたのである。そして水を汲んで主催者のところに持っていくようにと言われたのでその通りにしたのである。さて、主催者のところにそれが届けられた時、それはもはや水ではなくワインになっていたのである。しかも、上等の品であったという。ただそれだけのことであるが、考えてみるとそれは奇跡的なことだろう。水をワインと取り替えるのならばただの手品でしかない。濃いワインを水で薄めるのであれば、それはインチキでしかない。しかし、何の変哲もない水を上質のワインにしてしまうのは、これはまさしく無から有を創りだすことのことのできる神のみが行えるわざなのではないだろうか。

何がイエスをしてこのような奇跡を起こさせたのか。いろいろな意見があるだろうが、私はこう思う。イエスはただその場にいる人々を祝福したかったのではないかと。人々に足りないものがあれば、イエスはそれを備えることができる方なのである。必要とあれば、何もないところから恵みを生み出すこともできる方である。それがイエス・キリストなのである。