地上を歩いた神 4

彼らが「先生」と仰いでいた人物が、水をワインに変えたことを知った弟子達は、ようやくのこと彼が只者ではないことに気付いたようである。おそらく彼らの中では「我々が先生と呼んでいるこの男は、一体何者なのだろうか」という畏れと疑問と興味が沸き始めたことだろう。ヨルダン川の流れでヨハネという不思議な男が「この方こそ神のひとり子であられる!」と宣言したのを目撃した弟子達は、どうやらその言葉の通りかもしれないとうすうす気付き始めたのかもしれない。彼らは期待を胸中に、イエスに従っていくのだった。

さて、婚礼の後、彼らは連れ立ってエルサレムへと上って行った。折から過ぎ越しの祭りが近付いており、エルサレムの神殿にはいけにえを捧げるために、諸地方より多くの人々が集まっていたに違いない。遠方から来る人々にとって、いけにえとするための動物を連れてくることはさぞかし手間のかかる旅路になったであろうことが想像できる。いつの頃かその様子を見てどこかの賢い人が、いけにえとする動物を商えば儲かるかもしれないと思いついたのだろう。やがて牛や羊や鳩といった動物を売る屋台が神殿に目立つようになってきた。そして次には、いけにえを購入する人々の為に両替をする店も出てきたのである。もっとも、そのような店ができた当初は、遠方からの巡礼者の利便を優先的に考え、良心的な商売をしていたのかもしれない。とはいっても人の欲というのは尽きないものであろう。やがて彼らは自らの売り上げを伸ばすことに目的を持つようになったに違いない。やがて神殿の周りには屋台がひしめき合い、商売人たちの客寄せの声が響くようになったのである。人々は神との和解を求めて神殿にやってくるのであるが、まず彼らを出迎えるのは、これらの屋台となってしまったのだ。神と人の間に割って入ったようなものであろう。そのような現場にイエスはやってきたのだった。

ところで、神は義を重んずる方である。確かに、聖書は「神は愛なり」と教えているぐらいだから、神は慈愛に満ち溢れたお方であるということは疑いようのない事実であるが、その一方で神は正義を大切にするお方であることを忘れてはならない。愛の神は、ノアの箱舟にいた者を除いた地上のありとあらゆる生き物を大洪水で水死させ、ソドムとゴモラとそこに住む人々を焼き殺し、エジプトの初子を人であろうと動物であろうと構わずに殺した張本人なのである。これらの出来事の中に神の慈しみを見るかわりに、神の清さを見ることができるのだ。つまり、神は悪を黙って見過ごすことはされないのである。もし神が義を差し置いて、優しさを第一としたのならば、ソドムもゴモラも「あまり悪いことをしてはいけないよ。これからは心を入れ替えて過ごしなさいな」と言われただけで済んだことだろう。もしそうであったなら、人々は改心するどころか「神は俺たちを罰しないらしいぞ」と調子に乗り、さらなる悪事を働いたに違いない。そしてそれは神の御心に適うものではなかった。

福音書に話を戻そう。イエスの職業は大工であった。日々材木を担ぎ、鋸や鉋を挽き、槌を振るっていたその肉体は力に溢れていたことだろう。聖なる神の宮で、自らの利得のために商いを行っている者たちを見るや、イエスの怒りは爆発したのだ。憤怒に駆られ、イエスは屋台を打ち壊しに掛かったのである。大工仕事で鍛え上げられた体で暴れるイエスの前に、なす術もなく立ち尽くす商売人たちは「私の父の家で金儲けとはけしからん!」と大喝されたのだった。

私が最初にここを読んだ時、悪に対して厳しい態度をとるキリストの姿は、自ら行ってきた悪事、内に秘められた邪心を自覚していた私には、非常に恐ろしく見えた。キリストの怒りを買うということは、すなわち全知全能の神を怒らせるのと同じことだからである。ゆえに恐怖心を持たずにいられないのだ。キリストにあってすべての罪が赦されることを知って長い月日が経つ今、キリストに対する恐れは薄れてくるが、キリストに正義を重んずる一面があることを覚えておこう。どんな罪であっても赦されるのは確かであるが、それと同時にキリストは罪を憎んでおられるのだ。