地上を歩いた神 6

ニコデモとの密会の後、イエスたちはユダヤ地方に赴き、人々に洗礼を授けていた。それと時を同じくして、かつてヨルダン川でイエスその人に洗礼を施したヨハネも、また別の地域で人々に洗礼を授けていた。さて、洗礼を施しているのが自分たちだけではないことを知ったヨハネの弟子たちは、自分たちの先生にそれを知らせた。

ヨハネの弟子たちにしてみれば、自分たちの師がやってきたことと同じことを別の人物がやっていることに、なにやら反発のようなものを感じたことだろう。ましてやイエスの方が自分たち以上に洗礼繁盛している様子まで聞いてしまったとしたら、さぞかし相手方のことが妬ましいというか、憎らしく思えたことに違いない。それだけでなく、自分たちの師であるヨハネが、噂のイエスに洗礼を授けたのであるから、その思いはなおさらであったろう。「そもそも最初にあの人に洗礼を授けたのは、私たちの先生ではないか。それなのに、なんであの人が洗礼を…しかも私たちよりももっと多くの人たちに洗礼を授けているというではないか。これは一体なんということだろう。」そう思ったとしても不思議なことではない。

おそらくヨハネは、弟子たちの怒りと嫉妬の混じった不安な心情を察したのかもしれない。彼らに向かってこのように話している。「私は救い主ではない。私はただ、本当の救い主が来られることを告げるために、この世に遣わされているにすぎないのだ。そのことは諸君自身が知っているだろう。」

師であるヨハネの言葉を聞いて弟子たちは驚いたかもしれない。「先生は一体何を言っているのだ。先生の立場が危ういものになってしまうかもしれないのに。なぜ自分よりも有名になっているあの人を放っておくのか。」むしろそのような疑問を抱いた弟子たちもいたかもしれない。

さもなければ、自分たちの過ちに気付いたかもしれない。「そうだ。先生の言うとおりだ。あの人は私たちを救ってくれるお方なのだ。先生が言うように、先生はあのお方が来られる準備をしていたのだ。確かに私たちは、先生があのお方に洗礼を授けたときに、天から鳩が下ってあのお方にとまるのを見たではないか。」しばらく前に起こったことを思い出して、そのように考えを改めたかもしれない。

弟子たちがどう思ったのかは想像の域を出ることができないが、ヨハネはこうも言っている。「あのお方が栄えるのならば、それで私は満足なのだ。私の立場がどうなろうと、それは大事なことではない。」

まだ私がクリスチャンになる前に初めてこの箇所を読んだとき、ヨハネのこのような態度に、ヨハネという人物の信仰の深さというか、その潔さに大いに驚かされたことを覚えている。確かにほとんどの人は、何らかの形で信仰というものを持っているだろう。自分の理解と能力を超えた超自然的な何かを信じている人はクリスチャンでなくとも大勢いるだろう。もしくは宗教に対してまったく何の関心すら持たない人であっても、超自然的ではないが、力のある何かを信じていることだろう。ところで、人が何かを信じるといった場合には、「困った場合の神頼み」のような気持ちが多かれ少なかれあるのではないかと私は思う。自分にとって都合の良い信仰の形ではあるが、それが人の気持ちというものであろう。人というのは窮地に追い込まれると、自分より優れた、自分よりも力のある何かに助けを求めるということは―それが正しいか正しくないかは別としても―人として普通に考えてしまうことだろう。救いを求める対象が神であろうと、仏であろうと、はたまた金であろうと、結局のところ人は、自分を救いたい、自分が救われたいという思いの故に何かを信じる、すなわち信仰を持つのであろう。信仰というのは、悪く言うと、自己中心な一面があるのかもしれない。しかし、ヨハネの信仰というのは、この一言に表されているように、無私なものであった。彼の信仰の潔さを思うとき、自らの信仰に隠された狡猾さの故に、神に申し訳なく思うのである。