地上を歩いた神 7

イエスは弟子達を連れてガリラヤへと向かう旅の途中にあった。おそらく時刻もすでに夕刻であり、加えて徒歩による旅からの疲れが溜まったのだろう。イエスとその一行は、サマリヤ地方の町スカルの近くにある井戸端で休むことにした。イエスは弟子達を食料品を調達させるために近くの町に送り出した後、一人で腰を下ろして休んでいた。

ところで、イエスとその弟子達はユダヤ人であったのだが、彼らユダヤ人はサマリヤ人と大変に仲が悪かったのである。どちらかというと、ユダヤ人の方が、一方的にサマリヤ人を軽蔑していたという。そのような理由もあって、おそらく弟子達は距離があっても、ユダヤ人の町まで買出しに行ったのかもしれない。さて後に残ったイエスは、待てど暮らせど彼らが戻らないので、喉が渇いてしようがなかったことであろう。井戸の近くにいることはいたのだが、何も持っていないので、水の汲みようがない。誰かに水を汲んでもらうしかないのだけれど、明け方ならその日の水を確保するために人々が集まったかもしれないが、まさか日が沈み掛かっている時分に水を汲みに来るような人がいるのか怪しい。とにかくイエスは待つことにしたのである―思えば、水から上等なワインを生み出し、病める人々を癒したことのあるイエスが、井戸を目の前にしながら、一杯の水も飲めずに指をくわえて待つ姿というのは、想像してみると面白いというか、妙に愛嬌があるように思え、親しみがわくというものだ。すると、ちょうどその時、一人の女性が現れた。

「すまないが、水を一杯もらえないだろうか。」イエスは彼女に頼んだ。

するとその女性は大変に驚いたらしい。今の世の中に生きる私の目から見れば、何をそれくらいで驚くのだろうかと考えてしまうが、その当時を生きているサマリヤ人にとってはユダヤ人から声を掛けられるとは考えられないことであったらしい。ましてや相手が男性であればなおさらのことであったようだ。彼女はこう聞き返している。「なぜ、私に飲み水を頼むのですか。」

イエスは答えて言った。「水を求めている私が誰であるかを知っているのならば、あなた自身がその人を求めたであろう。そしてその人はあなたにいのちの水を与えるだろう。」

「汲むものを何も持っていないのに、どうやってその『いのちの水』を手に入れるのですか?」

イエスはこう続けた。「いや、その井戸の中の水のことではない。私が与える水を飲めば、それはその人のうちで泉となって、いのちの水を自然と湧き出させるのだ。そして二度と渇きを覚えることはない。」

この女性はこれを聞いて、その水を飲めば、もう水を汲みに来る必要はないのだろうかと、文字通りそれを信じたらしい。彼女はイエスにその水が欲しいと求めた。するとイエスは彼女に、夫を連れてくるようにと言われた。思えばそれが水と何の関係があるのだろうかと考えてしまう。しかし、イエスは彼女がどのような女性であるかを知っており、ずるいようだが彼女を試そうとしたのかもしれない。さて、彼女は自分には夫がいないことを告げた。するとイエスはこう言った。「その通り。あなたに夫はいない。あなたには夫が五人もいたが、今あなたが一緒に住んでいるのは、あなたの夫ではないからだ。」

早い話が、イエスのこの発言は「あなたは姦淫の罪を犯しているのではないか?」と言っているのと同じことである。もしこのようなことを面と向かって言われたらどうするだろうか。普通だったら否定するか、もしくは弁解するだろう。私ならそうするであろう。自分の非になるような事柄を隠したいと考えるのは人間としての本性かもしれない。エデンの園で禁じられた果実を口にした時も、アダムはエバを、エバは蛇を指差して「あれのせいだ」と神に弁解したではないか。それが人である。

しかし、この女性は違った。自分の罪を言い当てたこのユダヤ人の男性から逃げるではなく、「あなたは預言者です」と告白しているのだ。自分の犯した罪に覆いをかけること誰にでもできる。しかし、自らの過ちを受け入れることは、それは度胸のいることである。