地上を歩いた神 8

さて、イエスはこのサマリヤ人の女性との会話の中で、彼女に自分が救い主であることを明かした。するとちょうどその時、買い物を終えた弟子達が戻ってきた。井戸の横で休んでいた自分達の尊敬するユダヤ人の先生がサマリヤ人と、しかも女性と話しているところを見て、彼らなりに不思議に思い、また驚いたのかもしれない。おかげで、何も言葉にならなかったらしい。さて、黙って突っ立っている弟子達を横目に、彼女は町の人々に救い主の到来を告げ知らせようと走って立ち去った。彼女にしてみれば、井戸端で声を掛けてきた見ず知らずのユダヤ人の男が、実は待ち望んでいた救い主であることを知らされ、しかも直接に口を聞いたことでさらに興奮の絶頂にあったようだ。持っていた水瓶をその場に置き忘れてしまったくらいである。彼女の姿が町の方に小さくなった時、ようやくのこと我に戻った弟子達が、イエスにこう言った。「先生、食べ物を買ってきました。食事にしましょう。」

弟子達も気の利かないことを言うものである。イエスがサマリヤ人の女性と話しているのを不思議に思ったのならば、それを聞くこともできただろうが、相手がサマリヤ人であり自分達がユダヤ人であることを考えて思いとどまったのか、遠慮したのか、それともサマリヤの人間のことなど口に出すのも忌まわしいと思ったのか…とにかく食事の話題しか口にしなかった。彼らにしてみれば「さっさとサマリヤの町から離れましょう」と言いたかったのかもしれない。

そのような弟子達にイエスはこう言っている。「食事?何を言うかと思えば。私にはあなた達の知らない食べ物があるのだ。」

それを聞いた弟子達は、もしかしたら先ほどの女性か誰かが、何かイエスに食べ物を持ってきたのかもしれないと考え、仲間内であれこれ話し始めた。

それを耳にしたイエスは彼らにこう言われた。「そうではない。私にとっての食べ物とは、神の願っておられることを行うことなのだ。そうすることで私は満たされるのである。」イエスは意味ありげに弟子達に語った。

一体イエスは何のことを言っているのだろうかと、弟子達は不思議に思ったかもしれない。確かに私もこれを読んだときはイエスが何を言っているのか分からなかった。今でもどの程度分かっているのか甚だ心もとない。しかし、ここで一番印象に残るであろうことは、イエスが父なる神の意志に従うことをいかに大切にしていたかである。すなわち、彼にとって神の御心に従うことは、三度の飯よりも重要だったということだ。俗っぽい言い方になってしまったが、たかが食事などと侮ってはいけない。なぜなら食事をすることにより、人は活力を得るからだ。それこそ、食事をしなければ、人は何もすることができなくなってしまう。私なぞは空腹が満たされないでいると、機嫌が悪くなってしまうのである。そうなると、神の御心と言われても、どこ吹く風である。しかし、イエスにとって神の御心は必要以上のものだったのだ。

さて、イエスが弟子達とこのような会話をしている時、彼女は町に帰って、会う人会う人にイエスが語ったことを伝えたのだった。すると町の人々はイエスに会いにきて、是非とも自分達の町に滞在するようにとお願いしたのである。ふと思うのだが、イエスに会いに出かけてきた町の人々は、彼がユダヤ人であることを知っていただろうか。彼女がイエスに最初に出会った時に彼がユダヤ人であることに気付いたということは、やはりなにか彼がユダヤ人であることを特徴付けるなにかがあったのだろう。しかし、イエスのところにやってきた人々にしてみれば、彼の出身がどこであろうとどうでもよかったに違いない。彼が救い主であるということだけで、彼らには喜ぶに値する十分な理由があったのだ。また、イエスも彼らがサマリヤ人であることを気にしなかった。イエスにとってはサマリヤ人もユダヤ人も何の関係もなかったからだ。

イエスの目には、すべての人は神の救いと恵みと慈しみを受けるに相応しい者として映るのである。そして、それらを与えるのが神の御心なのである。