地上を歩いた神 10

それからしばらくした後、ユダヤ人の祭りのためにイエスと弟子たちはエルサレムの都へと上っていった。さて、都の門のそばにベテスダと呼ばれている池があって、その周辺には、病人だの怪我人だの身体障害者だのが集まっていたという。まったく、考えてみるとまるで大きな総合病院のような様子であったろう。ところで、この池の水が掻き回された時、池の水に浸かると疾病から疾病や怪我が癒やされるという言い伝えがあったらしい。嘘か本当かわからないような噂に惹かれて、彼らは池の周り吸い寄せられていったようだ。今のように医学が発達していたわけでもなく、彼らは藁にもすがる思いで池の畔にやってきたかもしれない。さて、その中に三十八年間も病に苦しみ寝たきりになった男がいた。不幸にも寝たきりな上に、いわゆる介護者もいないために、彼は肝心なタイミングで池に入れないでいた。必ず他の誰かが彼を追い越して池に入ってしまったという。おいしいところはいつも誰かにとられてしまうという、なんとも運がないというか要領の悪い男である。寝たきりの状態を癒やされたいために池の畔まで来たというのに、それが邪魔をして肝心の池に入れなければ、何の意味もない。なんとも皮肉というか、つくづく運の悪い男である。さて、そんなわけで、進退窮まっている彼を見つけて、イエスはどう思ったのだろうか。イエスは彼にこう呼びかけている。「良くなりたいのか?」

男は愚痴っぽく自分の状況を訴えている。「誰も私を池まで連れて行ってくれないのです。しかも、いつも誰かが私を跨いで池に行ってしまうのです。こんなではいつまでたっても良くなんかなりません。」

人生の大半を病のうちに過ごし、体の自由を奪われ、しかも人から顧みられることもなければ同情されることもない男を見て、イエスはどう思っただろうか。イエスの心は慈しみと哀れみの思いで満たされたであろうか。それとも、開口一番愚痴ばかりを口にする男に対するもどかしさであったろうか。イエスが哀れみに満ちたお方であることを考えれば、イエスはおそらくこの男を哀れんだことであろう。ところがこれは私の想像でしかないが、もしかたした後者ではないかとも思える。

イエスはそのときこの男に向かってこう言っている。「さっさと起きて、床を上げなさい!」考えてみると残酷とも無情とも思われる発言である。寝たきりの人に向かって言うような言葉ではない。これではイジメとも冷やかしとも取られかねない。イエスらしくないといえばイエスらしくないような気がしないでもない。

ところが冷静に考えてみれば、男にしても「何をこの人はいっているのだろうか」と思ったに違いない。自分の体の悪いことは自分が一番よく承知しているだろうから、心のどこかではすでに諦めに近い思いがあったかもしれない。それでは、なぜ彼はあえてイエスに言われて立とうとしたのか。思えば不思議ではないか。「立て」と言われたら「私は寝たきりなんだ。立てる訳なんてないじゃないか。何を言っているんだ」と反発する方が自然な反応であろう。しかし、男は素直にイエスの言われるがままにしたのである。彼はイエスが神の子であることを知っていただろうか。いや、それはないだろう。実際は人が多すぎて誰が言ったのか分からなかったと後日議会で弁明している。

これも私の勝手な想像にすぎないが、おそらく男が立ち上がった理由は、イエスが怖かったからではないだろうか。イエスはおそらく男に厳しい口調でいったのだろう。イエスはもしかしたら厳しい目つきをしていたのかもしれない。男が恐れるに足りるだけの様子であったのだろう。この人には逆らうことができないだろう、そう思って彼は観念して言われるがままにしたのかもしれない。

するとどうなったか。寝たきりだったはずの男が立ち上がったのである。そして歩いたのである。

なぜイエスはこのような乱暴とも強引とも思われる態度をとったのか。それはおそらく病に悩まされているにも関わらず、男が神に目を向けずに、伝承だの伝説だの噂だのといった実態のないものに助けを求めていたことに気づかせたかったのかもしれない。