地上を歩いた神 12

その後、ユダヤ人指導者の前に姿を現したイエスは、彼らに自分が何者であるかを語った。その内容については、私のように稚拙な者があれこれ書くのも憚られる。イエスが語ったことをそのまま読む方がいいだろう。

さて、六章に至ると、イエスと弟子たちはガリラヤ湖の付近までやってきたとある。この頃にはイエスの噂が方々に広まり、自然と人々が後を追うようになっていたかもしれない。また彼の到来を聞きつけて、集まってくる人々も多かったことだろう。事実、この時には成人男子だけでも五千人は集まったという。それに婦女子や子供を入れたら、その数は何人になったことか見当すらつかない。人々は何を求めて、イエスのところに集まったのだろうか。彼が病気で苦しんでいた人々、障害に悩まされている人々を癒やしていたことはすでに広く知られていた。その頃にはこのような噂が流れていたに違いない。「奇跡を行う人がいるらしい。なんでも、この人から声を掛けられたり、手を触れられたりすると、たちどころに病気が治るっていうことだ。」

そう考えると、彼らは自身もしくは家族や友人の上に奇跡が行われることを望んでいたか、もしくは純粋に奇跡が行われるところを見たいがためにイエスのところに集まってきたのだろう。ところが、イエスは丘の上でじっとしたままであった。奇跡を行うどころか、問題を抱えた人々のところを訪ねているわけでもない。ただ時間だけが過ぎていくのであった。集まった人々はいつ何が始まるのかとひたすら期待を胸に待っていた。さて、時間が経つとともに、待ち疲れた群衆の間から徐々に不満の声が聞かれるようになったことであろう。しかし、なんと言っても一番の文句は空腹を訴えるものであったかもしれない。おそらく集まった人々のほとんどは何も食べていなかっただろう。イエスはやっと腰を上げると、弟子のひとりであるピリポを呼んでこう言った。「どうやらみんな、お腹を空かせているようだ。どこかでパンでも買ってきて食べさせようかね。」

そう言われて、困ったのは弟子である。自分たちの懐具合を確かめてみても、自分たちでさえ満足に食事ができるかどうかも怪しいぐらいである。ここに集まった群衆から食費を徴収することもできなくはないだろうが、どれだけの持ち合わせがあるか知れたものではない。中には、一文すらもってなさそうな連中もいるではないか。仮に、金が存分にあったとしても、一番近い町に五千人を養うだけの食料があるかも怪しい。さらに、食べ物があったとしても、それをどうやって持って帰ってくればいいのかも分からない。どう考えてもなす術がないため、ピリポは半ばイエスを批判するかのように答えた。「先生、それは無理です。どう見たってここに集まった人は千人を優に超しています。銀貨二百枚は少なくとも必要でしょう。どうしろというのですか。」

するとちょうどその時、アンデレという弟子がやってきて言った。「先生、ちょうどここにいる子供がパンを五つと魚を二匹持っていました。」

「なにを言ってるんだ。そんなので足りるわけないじゃないか。」ピリポは内心呆れながら、呟いたことだろう。すると、イエスは神に感謝をささげると、わずかばかりのパンと魚をちぎって近くにいた人々に分け与えたのだった。イエスからパンの一つを渡された男は遠慮がちにそのパンを半分にちぎると、後ろにいた家族連れに渡した。そのようにして、パンと魚はそこにいた最後の一人にまで行き渡ったである。やがて日が陰り始める頃、イエスに言われて弟子たちが残ったパンのかけらを集めると、十二個の籠が一杯になったという。

初めてこの箇所を読んだ時、正直、イエスはすごいと思った。一人の病人を癒やすのもたいした奇跡であるが、わずかな食料で一度に五千人以上の食欲を満足させるとは、それ以上に印象に残る奇跡であると感じた。そして、今改めて読むと、神としてのイエスに不足するものはないことに気づくのだ。イエスは我々の必要を知っており、それを満たされるのだ。それも小腹を満たすような中途半端なものではなく、我々を十二分に満たすことができるのだ。だからピリポのように心配するのはやめよう。