地上を歩いた神 13

腹が満たされ、ようやく落ち着いた群衆の間にひとつの噂が流れ始めた。「どうやら、あのお方は五つのパンと二匹の魚だけしか用意できなかったそうだ。」それを聞いた人々は「まさか、それっぽっちの食料でここに集まった人たちに食事を与えるなんて無理なことだよ。いや、でもあの人が本当に言われているように神の子で、奇跡を行うことができるんだったら本当かもしれない。」やがて、あちこちから「あのお方こそ救い主だ!」と叫ぶ声が聞こえるようになると、それに煽られるように、人々が至る所でざわめき始めた。そして何人かがイエスのところに近づこうとやってきた。すると、まるで見えない綱でたぐり寄せられるように、人々は後から後からイエスの方へと近づいてきた。彼らは口々に叫んでいた。「救い主がこられた!預言されていた方がこられた!彼を我らの王にしよう!」

そのような期待と希望で半ば狂気に駆られた群衆が、自分を力ずくでも連れ去り、玉座に据えかねない勢いであるのを見るや、イエスは再び丘の上へと身を退けた。彼らの気持ちも分からないではなかっただろうが、イエスは人によって王の座へ上げられることを願ってはいなかった。それは、彼が人からの証言も栄誉も受けないと、以前に言ったことの表れでもあるだろう。

やがて日が沈むと、イエスと弟子たちは群衆から逃れようと、湖の反対側に渡ろうとした。弟子たちが船を用意して待っていたのだが、辺りが暗くなった頃になってもイエスは一向に姿を見せなかった。仕方がないので弟子たちはそのまま船を出すことにした。今まであまり気にすることもなかったが、なぜ弟子たちは師であるイエスを置きざりにしたのだろうか。冷静に考えれば考えるほど、腑に落ちないのである。普通に考えたら、そのままイエスのことを待ち続けるべきではなかっただろうか。いろいろと彼らのために言い訳を考えるとしても、どうにも納得が行かないのだ。夜の闇に船を出すのは危険だからだろうか。しかし、この時点で日は既に沈み、暗いことに変わりはなかっただろう。風が出てきたからだろうか。それならばなおのこと、風が静まるのを待つべきではなかっただろうか。しかし、彼らはイエスを乗せないまま船を出したのである。もしかしたら彼らは「先生はいくら待ってもこない。きっと、別のルートで向こう岸に渡ったに違いない。我々も早く船を出してしまおう」と自分たちを納得させたのかもしれない。

ところが、まだイエスは湖のこちら側にいたのだった。端的に言うと、置いてけぼりを食らったのである。星が夜空に瞬く中、湖の彼方に目を凝らしてみても、弟子たちの姿はもはやどこにも見えなかった。このまま朝まで待っていては、また群衆が騒ぎ始める。そう思ったイエスは弟子たちの後を追って向こう岸へ渡ることにした。

一方弟子たちの乗った船は、もうすぐで対岸に着くであろうというところで、風に煽られ、波に弄ばれ難渋していた。彼らは皆言葉もなく黙っていただろうが、心の中では、イエスを置いてきたことを後悔していたかもしれない。そのとき弟子のひとりがふと目を上げ波間を見ると、少し離れた水面に師が立っているのを見つけた。目の錯覚かと思い、他の弟子たちにそちらの方を指し示すと、彼らもまたイエスが湖面を歩きながら彼らの方へと向かってくるのを目にすると、彼らは驚きと恐れに縛られたかのようにただイエスを見つめるだけであった。「何をそんなに怖がっているんだい。私だよ、私。」イエスはそれだけ言うと、船に乗り込んだ。呆気にとられた弟子たちは驚いたまま何も言うことができなかったことだろう。やがて風は止み、波は収まり、彼らを乗せた船は無事に対岸へ着いた。

さて、最初に読んだときは、すごい、イエスは水の上を歩けるのか!と思ったが、今全体を通して見ると、それ以上のものが見えてくるのだ。風浪の猛る水面に漕ぎ出すとき、誰を船に乗せるだろうか…自分の力で頑張ることもできよう。しかし、それで目的地にたどり着くのは難しい。弟子たちがそうであったように立ち往生する可能性もあろう。そうなる前に、イエスを船に迎え入れ、荒れる水を静めてもらおうではないか。しかし、忘れてはいけない、船を漕ぐのは自分であることを。