地上を歩いた神 15

騒ぎから逃れるようにイエスは都を離れた。やがて彼はオリーブ山と呼ばれるところにやってきた。そして八章が始まる。初めてこの箇所を開いたとき、七章の最後の一節から八章の冒頭部分までが括弧でくくられているのが不思議であった。説明を読むと、この部分は古い写本には存在しないということらしい。そう言われると、ここはヨハネが福音を記した何年か後に、誰かが写し取っている時に加筆したという可能性もなくはない。とは言っても、現に今我々が読んでいる聖書にきちんとこの箇所が書かれていることは、約二千年に渡る教会の歴史を通じて価値があると認められているからであろう。

さて私があまり難しいことを考えなかった時には、他の聖書の箇所と同様に、この箇所も聖書の一部としてとくに意識せずに読んでいたのだが、もっと少し聖書を追究したいと思い、まじめにあれこれと考えていくと、果たして後から付け加えられた可能性を否定することができないこの箇所を、使徒ヨハネがオリジナルで書き残した残りの部分と同じように扱っていいものかどうかと疑わしく思えてきた。いわゆる「神の霊感」によって書かれたのであろうかどうかと考えてしまうのである。しかし、そんな難しいことが私に分かるわけはない。そのようなこともあって、一時期この箇所は深く考えずにただ流すように読んでいた。しかし、今改めて考え直すに、この箇所もまじめに考えながら読むべきではないかと思う。実際、人の手を介したとはいえ神が書かれた聖書を読んで生き方について信仰についてあれこれ考えるのと同様、新渡戸稲造の武士道を読んで義や礼とは何かと考えたこともあれば、孔子の論語を読んで人としての行いについて考えたこともあるのだから(残念ながらいずれも途中で挫折した。もう一度読み直してみたいと思う)何もヨハネの福音の八章をないがしろにすることもあるまい。そもそも、最初の頃は普通に読んでいたのだから。

さて、イエスは明け方オリーブ山から神殿に戻り、人々に教え始めようとしていた。さて、急に辺りが騒がしくなると、律法学者たちが、姦淫の罪を犯したとして一人の女を連れてきて訴えようとした。いや、実際にはそんな生やさしいものではなかっただろう。浮気の現場を押さえられたのでリンチしようと指導者たちが集まってきたと言う方が適切かもしれない。ここでは石打ちの刑と書かれているが、それは石を投げて相手を痛めつける程度のものではなかったという話を以前に聞いたことがある。話によると、両手で持ち上げなければならないほどの石を相手に投げつけ、生き埋めに近い状態するということだ。当然、そのような目に遭って生き残れる人はいない。実に残酷な刑罰であることこの上ない。ところで、冷静に考えると不思議なことに気付く。ここでは浮気の相手の男が出てこない。相手の男も同罪ではないか。しかも、現場で捕らえられたと言うことは、それを覗き見ていた助平がいたわけである。これも、罰せられてしかるべきではないだろうか。しかし、指導者たちはそんなことお構いなしである。それだけでなく、彼らはこの機会を使ってイエスを陥れようとまで考えていたのである。もしここでイエスがその女の罪を赦すと言うのならば、彼らはイエスを捕らえることができるのだ。罪を赦すことができるのは、唯一神のみであることを彼らは知っていたからである。また、もしイエスが女を見放すのであれば、それはそれで「イエスが女を見限った」と非難材料になると考えていたのであろう。どちらへ転ぼうと、イエスを追い詰めることができると彼らは自信があっただろう。

「先生、この女をどうしましょうか?」

「そうだな。確かに律法に従うなら罰するべきであろう。しかしもし彼女を罰するのなら、あなたたちのうちで罪のないものが、最初の石を投げなさい。」

そう言われてはさすがに指導者たちもイエスを捕らえるわけにもいかず、女を罰することもならず、一人またひとりとその場を立ち去って行くのであった。そして、後に残された女にイエスはこう言った。

「わたしもあなたを罪に定めない。」

イエスは最後にこの女の罪を赦したのだった。