地上を歩いた神 18

私がまだアメリカにいる頃、羊の群れを背景に子羊を抱いたイエスの姿が描かれた絵を目にすることがよくあった。おそらく著名な人が書いた絵なのだろうか、教会やキリスト教系の書店やカタログで見かけることが多かった。もっとも帰国してからはその絵を見ることもなくなってしまったので、どのような絵であったのか、その詳細は忘れてしまった。もしかしたら、今の私の記憶にある絵は、実際の絵とは異なっていたかもしれない。背景に羊の群れがいたかどうかについては、ちょっとばかり怪しいところもある。もしかしたら、私の想像での脚色かもしれない。さて、その絵が好きであったかどうかというと、どうもリアル過ぎて好きになれなかった気がする。しかしどういうわけか、不思議と記憶には鮮やかに残っているのだ。

さて、イエスはヨハネの十章で自分は羊の囲いの門であり、良い牧者であると言っている。すると、牧者であるキリストによって守られている私たちは羊ということになるのだろうか。

羊と聞いて何を思い浮かべるだろうか。おそらく、あの白くてふわふわした姿であろう。どこか温和しげで、純粋無垢であるような雰囲気を持った動物である。ところが、あの羊というのは本当はどのようなものなのか。動物学者ではないので細かいことは分からないが、聞き伝えによると哀れなほどに間抜けな動物であるらしい。羊というのは、群れの中の一匹が異なる動きをすると、他の羊がその一匹に追従する習性があるという。さらに、群れの中ではリーダーというのがおらず、百匹の群れの中のどれか一匹が右を向いてしまえば、残りの九十九匹も右を向いてしまうという具合である。要するに自分で考えて行動するということがないのである。去年の夏にトルコ東部で実際に起こったというこのような話がある。ある朝、千五百匹ほどの羊の群れが放牧されていたという。するとその中の一匹が過って崖から転落してしまったのである。すると残りの羊が最初に落ちた羊に従って、文字通り崖から死のダイブをしてしまったのだ。その事件というか事故で、四百五十匹ほどの羊が死んだという。後から落ちた羊はすでに先に落ちた羊がクッションとなったのでどうにか助かったというが、それにしても、呆れてしまうというか、何というか。お世辞にも利口な動物とは言えない。

さて、そう考えてみると、イエスが私たちを羊にたとえているわけは、私たちがもこもこして可愛いからというわけではなさそうである。むしろ、私たちの愚かしさゆえに、羊にたとえているのではないだろうか。

なるほど、そのように思われてしまっても仕方がないのではないかと思える。人というのは、大勢に流されてしまいやすい生き物であることは否定できないであろう。私が小学生くらいの頃に「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という、今考えてみれば愚かな言葉がはやったが、そのような考えは「朱に交われば赤くなる 」ということわざがあるように、ずっと昔からあったものである。要するに、人というのは生まれつき流されやすいものなのであろう。

そんな私たちであるからこそ、崖からダイブしないように正しい方向へと導いてくれる牧者が必要なのである。私たちが崖っぷちに立たされたときにうろたえるような羊飼いであってはならないのだ。イエスが言うように、良い牧者は羊を決して見捨てることなく、私たちを救うためには自らのいのちをも犠牲にしてくださるのだ。

以前、この箇所を読んだときには、私たちはいたいけな羊で、キリストがちゃんとか弱い私たちを守って下さるのだと、その程度にしか考えていなかった。しかし、改めて羊という生き物の姿について見直してみると、そんな甘い話をイエスはしているのではないなと、感じるのである。すなわち、私たちは救いが必要な程どうしようもない罪を負った者なのである。そのような私たちのために羊飼いとなってくれたのが、イエス・キリストである。