地上を歩いた神 20

エルサレム郊外のベタニヤという村に、イエスを愛し信じていたマリヤとマルタという姉妹がいた。そして彼女たちには、ラザロという兄弟がいた。このラザロという青年もまたイエスを慕っていた。ところが残念なことに、ラザロはこの時重い病に冒されており、よもや長くは持つまいと思われていた。心を痛めた姉妹は、イエスのところに使いを送った。ラザロのことを癒やしてくれるだろうと期待していたのであろう。彼女たちは使者にこのようなことづけを頼んだ。「イエス様が愛しておられる兄弟ラザロが病に苦しんでおります。」

哀れみ深いイエスのことだから、、すぐにでも駆けつけてきて、彼の上に手を置いて祈り、彼を癒やしてくれるものだと、彼女たちは期待していたに違いない。

ところが、イエスはすぐには動こうとしなかった。伝言を受けたのちも、二日もヨルダン川の反対側から動かなかったのである。これだけを読んで考えてしまうと、イエスというのは意外にも薄情な救い主に思えてしまうであろう。あるところに、自分では助けを求めることすらできない病人がいたとしよう。心配したその家族が、遠く離れたところに住んではいるものの、どんな病気でもたちどころに直してしまうという言われている名医のところに助けてくれと懇願しに行った。ところが、特に理由も言わず医者が重たい腰を持ち上げないとしたらどうであろうか。なんとも無責任な医者であると言えよう。さらに残酷とも思えることは、実はその病人と家族は、医者のごく身近な友人なのである。医者でなくとも、友人が苦しんでいたらなんとかしてやりたいと思うのが普通であろうが、それでも、イエスは動かなかったのである。単純に考えると、イエスは思いのほか冷淡な一面を持っているように思えても当然かもしれない。私も最初にここを読んだ時は、なんと薄情なと、思ったものである。普通に人間の情で考えると、これは非難されても文句言えないだろう。しかし、忘れてはならない。イエスは普通の人間ではないのである。いや、なによりも神の子であるイエスは人間であるだけでなく、また同時に神でもあるのだ。だから、我々に理解できないことがあったとしても、それはむしろ当然なのである。なぜなら、神は我々の理解と想像を遙かに超えているお方なのであるから。

そして、この時もイエスは密かに考えていることがあったのだ。それを意味するかのように、こう言っている。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」

そして二日後、イエスは弟子たちに再びユダヤ地方に行くことを告げた。ついこの前、イエスはその地で石打にされそうになったのだから、当然のように弟子たちは驚いたのである。ユダヤに行けば彼を妬んでいる指導者たちに捕まりかねないのに、なぜ危険を冒してまで出掛けていく必要があるのか不思議に思ったのかもしれない。どうやら、この頃には弟子たちもラザロのことをすっかり忘れていたようである。もし、覚えていたなら、きっとこう答えたことだろう。「わかりました。あのラザロという青年を助けに行くのですね。お供いたしましょう。」ところが、実際に彼らの口から出た言葉は違った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

イエスは彼らに答えて言った。「私は眠っているラザロを目覚めさせに行かなければならないのだ。」

思い出したように弟子は答えたのだった。「眠っているのならば、彼は助かるのですね。それはよかった。」

「違う。ラザロは死んでいるのだ。私がすぐに彼のところに行かなかったのは、これから起こることをあなた方が見れるようにである。さぁ、ラザロのところへ行こう。」

それを聞いた弟子の一人であるトマスが興奮して言った。「では、我々も先生と一緒に死のうではないか。」

さて、彼らがベタニヤに着いたときには、すでにラザロが死んで埋葬されてから四日も経っていた。人々は悲しみに打ちひしがれていた姉妹たちを慰めていた。