地上を歩いた神 22

さて、ラザロを死から復活させたことで、さらに多くの人々がイエスを信じるようになった。ところが、その反面、イエスのしたことをユダヤ人の指導者や律法学者たちに告げ口をする者もいた。イエスが多くの奇跡を行い、多くの人々が彼に従おうとする様子を見ると、指導者たちはますますイエスを危険視し、それに伴い彼に対する憎しみも日々増すばかりであった。身の危険を感じたイエスは、弟子たちと共に荒野の地方にあるエフライムという町に姿を隠してしまった。

やがて、過ぎ越しの祭りの日が近づいてくると、イエスは再びラザロとその姉妹が住むベタニヤの村に姿を見せた。彼らのところに戻ってきたイエスを歓迎するために、姉妹の住む家で弟子たちも招いて共に食事をすることになった。するとその時、マリヤが高価な香油の入った壷を持ってきて、その中身をイエスの足に注いだのであった。そして、自らの髪で、イエスの足をぬぐったのである。なぜイエスの足を洗うために香油を使い、またそれをぬぐうために自らの髪を用いたのだろうか。単純に足を洗うためであれば、お湯とタオルさえあれば十分であるように思えるのだが、妙と言えば妙な行動である。その場にいた他の人々や弟子たちがそれを見てどう思ったのかは分からないが、たった一つ確かなことは、マリヤのこの行いを不愉快に思った弟子が一人いたということだ。その弟子はマリヤにこう文句を言った。「あぁ、なんて勿体ないことをするのだ。それだけの香油があれば、人が一年に稼ぐのと同じくらいの値段で売れたであろうに。それを売って、貧しい人を助けるべきではないか。」

これが後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダであった。彼が本当に貧しい人のことを思っていたのかというと、実はそうでもない。彼は弟子たちの中で会計を担当していたのであるが、財布の中から金を抜き取っては自分のものにしていたという。おそらくユダの言葉の裏には、それだけの香油を売れば、相当な金額が彼らの懐に転がり込み、懐が豊かになれば、それなりの金額をかすめとることができるという邪な考えがあったのだろう。ところで、ユダを弁護するわけではないが、どうやら彼は金銭欲の強い性格であったのかもしれない、イエスを裏切るときも、本当にイエスが憎かったわけではなく、銀貨三十枚に目が眩んだからだと言われている。

さて、それを見たイエスは、ユダにこう言った。「彼女をそっとしておきなさい。貧しい人々はいつでもいるものです。でも、私はいつまでもあなた方と共にいられるわけではありません。マリヤは私の葬儀に備えて香油をとっておいたのです。」

ユダがこれを聞いてどう思ったのかは何も書かれていない。「葬儀とは…一体先生は何をおっしゃっているのだろう。」この時彼はまだ、まさか自分がイエスの死に直接的に関わりあうことになろうとは、夢にも思ってもいなかっただろう。

しかし、それについては別の機会に書こう。今はそれよりも、イエスの言ったことばに注目したい。私にとってはマリヤがイエスの足を香油で洗ったということよりも、そのような彼女の行いについてイエスが言ったことの方が印象に残ったからだ。特にこの二つのことばが、いつも私を考えさせるのだ。「貧しい人々とはいつも一緒にいる…」「わたしとはいつもいっしょにいるわけではない…」イエスは、事実をそのまま語ったに過ぎない。信仰に生きる私たちに、信仰と行動についての優先順位を教えているようにも思える。ともすれば、人という者は正しいことをしたいと願うものである。いや、むしろそのように義を行うことが信仰に生きる者にとっては欠くことのできないものである。実にこれこそが今の私に欠けているであるが…。

しかし、それよりも大切なことがある。それはまず何よりもキリストを礼拝することだ。義である救い主、神を求めることが大事である。悲しいかな。残念なことだが、助けの必要な人はいつでもどこにでもいるのである。そのような人を探し出すのに苦労はない。しかし、神は私たちが求めるその時にこそ、一番近いところにおられるのだ。その機会にを逃さないようにしよう。