地上を歩いた神 24

イエスは自らの死が近いことを理解し、それがどのような形で訪れるかを語った。しかし、人々はそれを理解することができなかったようである。

「人の子は上げられなければならないとは…一体全体、先生は何をおっしゃっているのだろう。預言者の言葉には、キリストはいつまでも生きておられると言われているではないか。それなのに、上げられるとは、何を言っているのだろう。そもそも、人の子とは誰のことを言っているのだろうか。」

イエスは彼らに言った。「まだしばらくの間、光はあなた方の間にあります。やみがあなた方を襲うことのないように、あなた方は、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」

イエスは自らのことを光にたとえている。太陽が天にいる間、世界は明るく照らされている。光があるから人は生活を営むことができるのだ。光があるから、人は自らが目指すところに行くことができ、道を踏み外して危険な目に遭うことを避けられるのだ。そして、日が沈み夜が訪れると、世界は闇に包まれる。そして人々は活動をやめるのだ。暗闇の中では、人は道を見ることができない。どこにどのような危険が潜んでいるのか分からないのである。今でこそ、電気が当然のものとなり、昼夜関係なしに人は自由に活動することができるようになった。日暮れと共に闇で世界が包まれるということもなくなってきたが、だからと言って夜の闇の存在を否定することはできまい。

コンビニがある生活に慣れてしまった私たちには、夜の闇というのがどのようなものであるか、あまり実感が湧かないだろう。私も闇夜というものを体験したのはいつの頃だか覚えていないくらいだ。もしかしたら、まだ学生の頃に、街の明かりの届かないところに流星雨を見に行った時が最後くらいかも知れない。便利になり過ぎたと言ってもおかしくない今の世の中、闇というものがどのように感じられるのか、私たちには想像することしかできまい。おそらくそれは、何も見えない事に対する恐れであり、不安であろう。

光であり、神の子であるキリストが地上で人々と共に生きている間は、この世は夜の闇に閉ざされることはあっても、人々を圧迫するような闇に閉ざされることはなかった。なぜなら、キリストは人々に希望を与え続けたからである。もし闇が存在したとすれば、それは人が明かりを遮るために目を閉じるように、キリストに対して目を閉ざした人々の心の内側だろう。

しかし、イエスが十字架に上げられることで、この世を照らす光が消えてしまうのである。一寸先は闇とはまさにこのことだろう。明かりが消えてしまっては、人は闇の中で迷うことしかできないのである。そのようなことになることを不安に思い、イエスはこう言ったのかもしれない。「まだ光がある間に、光のことを信じなさい。そうすることで、あなた方自身も光の子となるのです。」

言葉にこそ出していないが、おそらくイエスの気持ちはこのようなものであったろう。「そして、あなた方も世の光となりなさい。私が去った後には、あなた方が世の中を照らす光となって、世界が闇に覆われないようにしなさい。」

イエスのそのような気持ちは伝わったのだろうか。考えてみると、世の中を照らしてきた人々がいたからこそ、私がそうであるように、今日でも人はキリストに望みを見出すことができるのではないだろうか。たとえわずかな明かりであっても、暗闇で輝くことができれば、暗闇を遠ざけることができるのである。輝きも集まれば世界を照らすのに十分な明かりになるではないだろうか。考えてみれば、明るく地上を照らす太陽が沈んだ後でも、小さく輝く星々がこの地上を照らし続けているではないか。そして、夜は永遠に続くものではない。やがて朝が来ると太陽が再び世界を照らすのだ。何度か「夜の闇」と言ってきたが、あながちそうではないのかもしれない。

キリストが太陽であるならば、私たちは暗い夜空で輝く星となって、世を照らせば良いのではないだろうか。わずかでも世を照らせば、人々は迷うことがないのである。