地上を歩いた神 25

イエスの数々の奇跡を見聞した後でも、やはり彼を信じない人々がいた。しかし、彼を信じる人々も出てきたのである。そのような人々の中にはイエスを迫害しようと企んでいた指導者たちも幾人か含まれていたという。

ところが、彼らは自らの信仰について公に認めようとはしなかった。彼らは新しく得たその信仰の故に、会堂から追放され、仲間から迫害されるのを恐れていたのである。確かに、裏切り者と罵られることは目に見えて明らかであっただろう。しかし、彼らが不安に感じたのはそれだけではなかった。彼らはそれまでに築いてきた立場、富や名声といったこの世における価値あるものを失うことを恐れていたのである。彼らは神から認められることよりも、人から賞賛されることを好んでいたからだ。

だからといって、そのような彼らが不信仰であるかといえば、必ずしもそうであるとは言えないだろう。なぜなら、まずは信じることが大切だからだ。

イエスはまだ周りにいた群衆に向かって声を大にしてこう言った。おそらく信じた者、信じなかった者に等しく伝えたかったのだろう。「私を信じるということは、ただ私だけを信じるということではないのです。つまり、私をこの地上に遣わした方をも信じることになるのです。あなた方が私を見るとき、そこに私を遣わした方をも見ることができましょう。私はこの世界に光を与えるためにやってきたのです。私を信じる者が暗闇で迷わないためにです。」

ユダヤ人たちは神を信じ敬っていたであろう。残念ながら、彼らの信仰は形骸化していたようであるが、それでも神を思う心はあったかもしれない。そして、そのような彼らの前に現れたのが、神から遣わされた救い主、キリストであった。彼を受け入れる人々も多くいたが、そうでない人々もまた多くいた。とりわけ宗教的指導者たちや律法学者たちは彼を信じようとはしなかったのである。しかしイエスのこの言葉によれば、それはとりもなおさずキリストを地上に遣わした神を信じないことになるのだった。もっとも彼らが不信心であったとは思えない。ただ、彼らには神への信仰よりも重要なものがあったのだろう。イエスが民衆の信仰を一身に集め、それを危惧したのが彼ら知識層の人々だったのである。彼らは社会的な立場に自らの存在の基を置いていたのだろう。イエスの登場で、それらが揺るがされそうになったことで、彼に対して敵意や嫉妬を抱くようになったのだ。

そのようなユダヤ人たちが多くいた中で、イエスを信じた人々は、彼らにとってこの世で価値あるものと神への信仰とを天秤に掛けたとき、わずかに神の方へ天秤が傾いた人々であったのかもしれない。しかし、天秤の片方の皿が空っぽであったわけではない。まだ皿には俗世間での富だの名声だのといったものが残っていたのである。それ故、彼らは自らの新しい立場というものを声に出して言えなかったのかもしれない。

さて、そのような彼らの気持ちは、自然というか当然のものであるような気がする。信仰者の持つ天秤のひとつの皿には「神への信仰」があり、もうひとつの皿には「神以外への思い」というものが載っているのではないだろうか。「神への信仰」が載った皿だけしかなく、もう一方の皿の上には何もない…はっきりとそう言える人はまずいないだろうと思う。人は誰しも神以外に大切なものというのを持っているものだろう。風が吹いたり、土台が揺らいだり、塵埃だのが皿に付着したりして「神以外への思い」の方へ天秤が傾いてしまうことだって一度や二度とは言わず、もっとたくさんあるかもしれない。諦めというわけではないが、それはそれとして認めざるを得ないだろう。人である限り、仕方のないことだと思う。僅かではあっても神の方へ思いが傾いていることが信仰なのであろう。

キリストは天秤がどちらに傾いているかを調べて、人々を裁くためにこの世にやってきたのではない。彼は、人々の持つ天秤が、神の側へと傾くことができるようにと、奇跡を行い、様々な話を語って人々を導こうとしたのである。彼にとっては、もう一方の皿に何が載っているかよりも、「神への信仰」が載っている皿が重くなることを期待していたのであろう。