地上を歩いた神 27

イエスが弟子たちの足を洗った後、食事をしているときに、イエスは彼らに言った。「あなた方の中の一人が、私を裏切ることになります。」

これを聞いた弟子たちは黙り込んでしまい、互いに顔を見合わせて、一体誰が自分たちの師であるイエスを裏切るのかと不審に思った。この時、イエスに何事か囁かれたユダが外に出て行ったのであるが、誰一人としてそれを不審に思った者はいなかった。また、イエスに心酔していたペテロは、イエスのためなら命までも捧げると自信ありげに言ったが、イエスに褒められるどころか、自分のことを三度も否定することになると言われて、ひどく落ち込んだことだろう。せっかくの食事の場が、重苦しい雰囲気に包まれたに違いない。

さて、不安と困惑と動揺を隠せない弟子たちにイエスは言った。「あなた方は心配をしてはいけません。神を信じ、また私を信じなさい。なぜなら、私はあなた方のために、父の家に場所を備えに行くのです。私の行く道は、あなた方も知っています。」

イエスの行く道…?弟子たちは何のことかと疑問に思ったようである。弟子の一人であるトマスはイエスに聞き返している。「先生、どちらにいらっしゃるのか私たちには分かりませんのに、どうして私たちがその道を知ることができましょうか?」

「道とは私自身のことです。誰でも私を通してでなければ、父の家に行くことはできません。あなた方が私を知っていれば、父をも知っているはずです。あなた方は、すでに父を知っており、父を見たことがあるのです。」

そう言われても、まだ納得することができないのか、理解することができないのか、ピリポはイエスにこう言った。「では先生、私たちにもう一度父を見せてください。そうすれば、満足しますから。」

イエスはこれを聞いてたいそう残念に思ったことだろう。ピリポにこう言っている。「今までずっと一緒に過ごしていたのに、あなたは私を知らなかったのですか…。」

しかし、イエスはピリポだけでなく、他の弟子にも同じ事を伝えたかったのかもしれない。「私を見た者は、父を見たのです。私が父におり、父が私におられることを、あなた方は信じないのですか。私があなた方に語ってきたことは、私が自分勝手に話しているわけではありません。私のうちにおられる父が働かれているのです。」

そもそも弟子たちは彼らの師のことをどれだけ理解していただろうか。思えば、ユダには裏切られ官憲に売られ、ペテロには出来もしないことを約束され、ピリポには教えていたことが理解されずと、どちらかというと弟子たちには恵まれていない救い主であった。

とは言っても、ピリポが聞いてくれたおかげで、私たちもイエスの姿をより鮮明に見ることができるというのも事実である。イエスが神のうちにあり、神がイエスのうちにあると言うことは、どちらが優れているというわけでも、どちらかが一方を従えているわけでもなく、変な言い方になってしまうかもしれないが、互いに共存していると言えるのかもしれない。もっともこの考え方そのものが、人間の理解することの出来る範囲を超えているのかもしれないので、うまく説明することはできないが…。

しかし、少なくともこれだけは明らかであろう。イエスが語ったこと、教えたこと、行ったことはすべて人として彼が行ったことではなく、神として彼が行ったことであるということだ。イエスの口から出た言葉のひとつひとつは神の口から出たものと同じであり、イエスが「互いに愛せよ」と教えたのなら、それは神が教えたことであり、イエスが病人を癒やしたのであれば、それは神が肉体的、精神的に苦しみ悩んでいる人々を癒やしたことになるのだ。

そうであるから、イエスと共に過ごし、彼の奇跡を目にし、教えを耳にすることで、弟子たちは神を見たことになるのだ。いや、神と共に過ごしたとも言えるだろう。そして私たちにとっては、そのような弟子たちの記録を読むことでイエスを知り、神を知ることになるのだ。イエスを知ることが神を知ることであるならば、イエスが父なる神へ続く最短かつ確実な「道」であることが見えてくるのではないだろうか。