地上を歩いた神 29

愛というものほど分かり易そうで、分かりにくいものはないのではないか。愛という言葉ほど頻繁に使われているにも関わらず、理解されにくい言葉はないのではないか。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、人類愛、隣人愛…と様々である。そもそも愛とは一体何であろうかと、そう考えることがある。

さて前回のおさらいになってしまうが、木と枝の関係でキリストと結ばれていることによって、私たちは信仰的な成長を遂げるうえで必要なものを得ることができる。そして、私たちをキリストと結びつけているものが、抽象的で曖昧に聞こえるかもしれないが、キリストの愛と言葉である。

ヨハネの福音十五章では、キリスト自身もこう言っている。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。もし、あなた方が私の教えたことを守るなら、あなたがたは私の愛にとどまるのです。それは、私が父の教えたことを守って、私の父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

父なる神がひとり子であるキリストを愛されたように、キリストが私たちを愛したというのはどのようなことだろうか。…しばらく考えてみたが、正直この答えは私には分からない。神がキリストのこと指して「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言ったことくらいしか思い浮かばないのだ。

しかし、キリストがどれほどに人々を愛したのかは、これまでのイエスの歩みを見れば分かるだろう。病に悩み苦しむ人々を癒やし、社会的に虐げられた人々を励ますなど、イエスが人々のことを愛しんでいたことの表れであろう。しかし、それがイエスの語る愛であるかというと、そうではないようである。イエスはこのようにも言っている。「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」

人のために自らの命を捧げることが一番の愛であるということを言っているのだろうか。おそらくキリスト自身がこれから十字架につけられることについて話しているのだろうと私は思う。キリストのこの言葉の意味は、これを越える愛というのは存在し得ないということなのかもしれない。しかし、イエスはこうも言っている。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うようにと私は教えます。」

文字通りイエスの戒めを守るとすれば、私たちは人のために命を捨てるような生き方をしなければならないということになる。確かに、自己犠牲を覚悟した生き方を貫くことができるのであれば、それはそれで立派なことかもしれないが、少なくとも私には無理な話である。やはり自分は大事である。

しかし自己犠牲というものが如何に尊いものだとしても、それでもキリストの愛を越えることはできないのではないかとも思う。さて、確かにイエスは人々を救うために、十字架の上でこの世界での命を終えることになるのだが、果たしてそれを単純に自己犠牲ということができるだろうか。…私はそうは思わない。

人のために命を捨てるという状況を想像するのは不可能に近いものであるが、その結果は明らかである。それは、相手が生き延びて、自分が死ぬということである。さて、それから何十年後かを想像してみよう。自分が助けた相手がどうなるか。これも明白である。その人も死ぬのである。私たちがいくら自分たちの命を犠牲にしても、助けた相手もやがて死ぬのである。ところが、イエスによって救われた人々はどうであろうか。その肉体は死にゆくであろう。しかし、罪が赦されていることで、永遠の命を得ることができるのだ。これが、人の自己犠牲とイエスの十字架の大きな違いであろう。前者は一時的な延命措置に過ぎないが、後者は完全な癒やしと解放なのである。

それを考えると、私たちが人を愛する最大の愛とは、何であろうか。文字通りの自己犠牲であろうか。それも間違ってはいないだろう。しかし、それよりも永遠の救いを与えるイエスを伝えることではないだろうか。そうすることが、また私たちに喜びをもたらすことになるのではないだろうか。