地上を歩いた神 30

さらにイエスは弟子たちに、今後のことについてこのように話した。「世間はあなた方を嫌うことでしょう。しかし、覚えていなさい。世間は先に私を嫌ったのです。もしあなた方が世俗の世界の一員であれば、世間はあなた方を歓迎することでしょう。しかし、私があなた方を選んだのです。それだから、この世の中は、私を憎んだように、あなた方をも憎むことでしょう。」

キリストはイスラエルの王、救い主としてこの世界にやってきたのである。その身分に相応しい扱いを受けて然るべきであったにも関わらず、人々、特に知識人や権力者たちは彼を丁重に扱うどころか、あたかも民衆を扇動させている不逞の輩であるかのように見ていた。そして、弟子たちもイスラエルの王に選ばれた者として、この世で救い主の到来を告げる者として歓迎されてもおかしくないのに、迫害されるようになるとは、実に理不尽なことに思える。イエスは弟子たちが後々苦労することのないように、彼らが心の準備をしておくことができるようにと、このようなことを語ったのかもしれない。

このようなことを言われてしまっては、三年近くもイエスと寝食を共にし、数多くの奇跡を見てきた弟子たちでさえも気が滅入ってしまったことだろう。彼らの師と同じ道を歩むことになると、アタマで理解することはできたとしても、気持ちとしてそれを受け入れることはできなかったかもしれない。あなたはこれから痛い目に遭いながら生きていきますと言われたら、誰だって泣きたくなるであろう。さて、イエスはそのような弟子たちを励ますかと思えば、余計に彼らの気を落ち込ませるようなことを言った。「もうすぐ私は、私をこの地上に遣わせた方のもとに帰ります。」

どのような形でそれが現実のものとなるかは、弟子たちにはまだはっきりと分かっていなかったであろう。しかし、彼らもうすうすと感じていたであろうが、イエスが父なる神のもとに帰ると言うことは、すなわち彼らのもとから去ってしまうと言うことであった。

世間から迫害されるだけでなく、師と仰いでいたキリストがどこか彼らの手の届かないほど遠くへと去ってしまうことを悟った弟子たちは、目の前が真っ暗になったように感じたことだろう。すべての希望が絶たれてしまったかのように感じたことだろう。

イエスも彼らの心の嘆きを察していたようである。「あなた方が悲しんでいることはよく分かります。しかし、本当のことを言いましょう。私がこの世界から去ることは、実はあなた方にとって益となるのです。なぜなら、私が去ることで、今度は助け主である御霊がやってくるからです。私がいつまでもこの世界にとどまるのならば、そのお方はやってこないのです。」

イエスは確かにこの世を去らねばならなかったが、だからと言って、弟子たちや彼を信じた人々をそのままにしておくことはしなかった。彼自身の代わりとなって、人々を助けるための御霊、すなわち神の霊がやってくることを彼らに伝えたのだ。イエスはその助け主についてこう言っている。「そのお方が来ると、罪について、義について、また裁きについて、この世のあやまちを明らかにされるでしょう。」

罪とは、人々の罪であろう。すなわちイエスのことを信じることなく、彼を退けたことを意味するのではないだろうか。また義とは、神の義であろう。すなわちイエスがこの世を去って、父なる神のもとへ行くことを意味するのだろう。そして、裁きとは、神の裁きであろう。この世の支配者が、すでに裁かれていることを意味しているのかもしれない。

しかし、何よりもこの助け主である御霊が助け主である所以は、このお方が「真理の御霊」であり、イエスを信じる人々を正しい道、神の義へと続く道に導くからである。なぜなら御霊は自分自身のことを語るのではなく、神が語ったことをそのまま人々に伝えるからだ。

当たり前だがイエスが天に帰られた今となっては、この世を歩くイエスの姿を見ることはない。しかし、私たちは孤独ではない。なぜなら、助け主である御霊が、私たちを日々見守り、支えて、導いてくださるからである。