カテゴリー : 出エジプト記

生きるために

「夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう。』と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。」(出エジプト記16章13~15節)食べるものがないではないか、餓死しなかっただけでもまだエジプトにいた方がよかったのではないか、と文句を言っていたイスラエルの民に、神は肉とパンを与えると約束したことが、いよいよ現実のことになったのである。神を疑うようなものはさすがにもういなかったと信じたい。

ところでうずらと言えば、私たちはうずらの卵を思い浮かべてしまうが、うずらの肉は普通に食べられているらしい。買ったことはないが、フランス産のうずらというのが売られているそうで、丸ごと一羽をローストするなどして食べるという。食べたことはないが、想像するだけでも空腹を覚えてしまう。うずらのコンフィとか、きっと美味しいに違いない。もちろんイスラエルの民が荒野でそのような凝った料理をして、うずらを食べたとは思わないが、それでも彼らは毎晩のように肉を食べることができるようになったのである。考えても見れば、毎晩のように肉を食べられるとは、私よりも贅沢な食生活ではないか。神は確かにイスラエルの民が求めていたものを与えられたのである。イスラエルの民がこれらのものを稼ぐために何かしたのではない。神が必要なものを時に応じて備えられるだけなのである。

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イスラエル人のつぶやき

「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』」(出エジプト記16章2~3節)イスラエルの民は水とナツメヤシが豊富にあるエリムに留まってはいなかった。もしかしたら、彼らのうちにはここで十分ではないか、これ以上旅を続けるのではなくこの辺りで落ち着いてはどうかと、そう思った者もいたかもしれない。しかしそこはまだ彼らが目指すべき、乳と蜜とが流れる神が約束の地ではなかった。それだからこそ、彼らは旅はまだ終わらなかった。

さて旅を続けていると、人々は新たな不満を口にするようになってきた。飲み水に困らなくなったら、今度は食べる物がないと言い出したのだ。もちろん、何もなかったというわけではなかったに違いない。もし本当に何もなかったとしたら、それこそ旅の途中で餓死してしまっていただろう。だとしたら出エジプト記が残るようなこともなかったであろう。おそらくエリムから持ってきたナツメヤシの果実もあっただろうし、道すがら新たにナツメヤシを見つけることもあったかもしれない。もし彼らが海岸沿いを歩くこともあれば、魚を取ることがあったとも考えられよう。もし途中で人の住む土地を通過することがあれば、そこで物々交換で必要な食料を得ることがあったかもしれない。そう考えてみると、彼らが生きていくためには、なんとか十分なだけの食べ物があったのではと推測できる。

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ちからの見せ方

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。」(出エジプト記15章22~23節)さてイスラエルの民はエジプトから追われるという不安から解放されて、約束の地を目指して旅を続けていた。では、彼らの歩みは何の問題もなく順風満帆に進んでいたかと言えば、そういうわけでもなかったようだ。エジプトから解放されたことは、確かに良かったのだが……ひとつの問題が解決して安心すると、それまでは気にならなかったこと、小さな問題が気になってしまうという、それが人の常というものであろう。

つい先ごろまでは、エジプトから逃げることだけに必死になっていたイスラエルの民であったから、おそらくよそ見をする余裕もなければ、立ち止って周りの様子をじっくりと伺うようなこともしなかったに違いない。しかし今になって少しばかり心に余裕が出てくると、今度は自分たちの置かれている環境が、厳しいものであることに気付いてしまったようである。なんと彼らには水を見つけることすらできなかった。まぁ、急いでエジプトを後にしたのである。十分な旅の準備などできるわけがなかったろう。しかもナイルで潤されていたエジプトを離れてしまっては、そこは岩と砂ばかりの荒野でしかない。人が住んでいるような場所もなかったであろうし、仮に人が住むような町や村があったとしても、イスラエルの民の全員を受け入れることは、不可能だったに違いない。

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神は連れて行く

「モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。」(出エジプト記15章1節)彼らのすぐ後ろでエジプト王が誇る精鋭部隊が海に飲み込まれたちょうど後だった。彼らはようやくエジプトの手が届かぬところにやってきたのである。約束の地はまだ先であったが、彼らを追う者たちはいなくなったのである。後は目的地を目指して進むだけだった。おそらく彼らは、いまだかつて味わったことのない安心感と解放感とに満たされていたに違いない。そのような彼らであったから、自然と神に向かって歌を歌ったのであろう。信仰を持つに至ってから来年で30年になろうかという私であるが、そのような気持ちになったことがないのは、もしかして私がモーセやイスラエルの民が味わったような喜びを経験したことがないからだろうか。

思えば若かったあの頃、イエス・キリストを救い主として受け入れて、それが罪からの解放であり、また同時に天の御国に行けるという確約、すなわち永遠のいのち、という安心を得られたことでもあり、考えてみるとそれは、イスラエルの民が体験したことと同じだったのかもしれない。そのように今になって思うのだが、あの日の自分にはそのような感動はまるでなかった。もっとも父祖の代から四百年以上も捕われの身であったと彼らのことを思えば、神のことなど何も考えずに19年しか生きてこなかった私が、いきなり方向転換をしたというのだから、イスラエルの民のような喜びを感じなかったとしても、それはそれで仕方のないことかもしれない。

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追跡(後)

(前編はこちらからどうぞ。)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト記14章13~14節)間近に迫るエジプトの軍勢を見て、恐れおののいていたイスラエルの民に向かって、モーセはこう言った。恐れてはいけない、そうは言われても、エジプトの軍勢が戦車に乗って迫っているのである。無理なことを言うなと思ったかもしれないし、もしかしたらそんなことを考える余裕すらなかったかもしれない。眼の前は海、背後にはエジプトの軍勢、戻るに戻れず、進むに進めず、逃げ道はどこにも残されていなかったのだから。

彼らはモーセの言うことを信じるしかなかった。すなわち、神がイスラエルの民のためにエジプトの軍勢と戦われるということを。そして、今日を最後に彼らを抑圧するエジプトの民を見ることはないということを。イスラエルの民は追う者から逃げる必要もなく、また彼ら自身で立ち向かう必要もないということである。彼らがするべきことは、ただ黙って立って、神がこれからなさろうとするわざを見るだけであった。簡単なことではないか、と言いたくなるが、それは冷静に物事を見ることができる立場にあるから言えることだろう。危機が迫った状況では、それこそじっとしていることなどできないだろう。ここでモーセが民に言っていることは、簡単そうで実はそうでもなかったのかもしれない。

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