カテゴリー : 2020年の作品

神の御国は近づく

今年も残すところあとわずかである。ついこの前、新年を迎えたかと思いきや、もう十二月も最後の週である。何とも不思議なことであるが、一日は同じ24時間しかないはずなのに、一年また一年と歳を重ねるにつれて、短くなっているような気がする。いや、短くなっているのではなくて、時間の進み方が徐々に速まっていると言うべきであろうか。いつまでも若いと思っていても、鏡に映る自分の姿を見たり、近くのものが見えにくくなったり、頭皮にかさぶたのようなものができて皮膚科に見てもらったら「残念ですが、老人性イボですね」と苦笑いされたり、本人が思っている(期待している?願っている?)ほどに若くないというのが、私に突きつけられた現実なのである。気持ちの上では、今でも「青年」な気がしなくもないが、それはもしかしたら、まだまだ人として未熟だということの現れなのかもしれない。であるとすれば、私はただただ無駄に歳を重ねているだけなのだろうか。だとしたら、それは残念なことだ。

それにしても、どれほど後悔していようと、どれだけ満足していようと、この一年もあと数日で終わってしまう。世の中としては、今年は今までとは違った、一年であったろう。しかし世の中は世の中、私は私ということで、自らの一年を振り返ってみて、果たして何か成し遂げたであろうかと考えると、あまりめぼしいものが思い浮かばない。一日一日をただなんとはなしに過ごしているうちに、あっと言う間に一年が過ぎ去ってしまったかのようだ。

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静かな時を

クリスマスと聞いた時に、私たちは何を思い浮かべるだろうか。私の頭にまず一番に浮かぶことは何であるかと問われれば「クリスマスの雰囲気」と答えるであろう。クリスマスの雰囲気と言ってしまうと、なんとも曖昧で抽象的で、かつ主観的なものであるから、説明することは難しいような気がする。もし私と同じ考えの人がいるのであれば、私が言わんとしていることを分かってくれるかもしれない。たぶん、だけど。その素晴らしい雰囲気は、良い意味で言葉にして表すことができないのではないだろうか。もっとも今年に限って言えば、今までのクリスマスとはだいぶ様子が違っているというのも、残念なことだが事実である。しかしクリスマスがなくなったというわけではない。クリスマスは今までもそうであったように、今も私たちと共にあるのだ。(いや、クリスマスが共にあるという言い方は、ちょっと違うかもしれないが、他に相応しい言葉が見つからない……)

ところでクリスマスと聞いて、私(そして私と似たような考えを持った方たち)以外の人々は何を思い浮かべるだろうか。ある人はクリスマスと聞くとプレゼントを思い浮かべるかもしれない。プレゼントを贈ったり、貰ったり。確かにプレゼントは贈るにしても、貰うにしても、どちらも嬉しいものである。家族や友と集い時を過ごすことか。ちょっと、今年は厳しいかもなぁ。他にも、クリスマスケーキ、クリスマスツリー、イルミネーション、サンタクロース等など、この時期に人々が思い浮かべることは様々にあるだろう。私の場合は、それが「雰囲気」というものなのである。

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生きるために

「夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう。』と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。」(出エジプト記16章13~15節)食べるものがないではないか、餓死しなかっただけでもまだエジプトにいた方がよかったのではないか、と文句を言っていたイスラエルの民に、神は肉とパンを与えると約束したことが、いよいよ現実のことになったのである。神を疑うようなものはさすがにもういなかったと信じたい。

ところでうずらと言えば、私たちはうずらの卵を思い浮かべてしまうが、うずらの肉は普通に食べられているらしい。買ったことはないが、フランス産のうずらというのが売られているそうで、丸ごと一羽をローストするなどして食べるという。食べたことはないが、想像するだけでも空腹を覚えてしまう。うずらのコンフィとか、きっと美味しいに違いない。もちろんイスラエルの民が荒野でそのような凝った料理をして、うずらを食べたとは思わないが、それでも彼らは毎晩のように肉を食べることができるようになったのである。考えても見れば、毎晩のように肉を食べられるとは、私よりも贅沢な食生活ではないか。神は確かにイスラエルの民が求めていたものを与えられたのである。イスラエルの民がこれらのものを稼ぐために何かしたのではない。神が必要なものを時に応じて備えられるだけなのである。

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イスラエル人のつぶやき

「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』」(出エジプト記16章2~3節)イスラエルの民は水とナツメヤシが豊富にあるエリムに留まってはいなかった。もしかしたら、彼らのうちにはここで十分ではないか、これ以上旅を続けるのではなくこの辺りで落ち着いてはどうかと、そう思った者もいたかもしれない。しかしそこはまだ彼らが目指すべき、乳と蜜とが流れる神が約束の地ではなかった。それだからこそ、彼らは旅はまだ終わらなかった。

さて旅を続けていると、人々は新たな不満を口にするようになってきた。飲み水に困らなくなったら、今度は食べる物がないと言い出したのだ。もちろん、何もなかったというわけではなかったに違いない。もし本当に何もなかったとしたら、それこそ旅の途中で餓死してしまっていただろう。だとしたら出エジプト記が残るようなこともなかったであろう。おそらくエリムから持ってきたナツメヤシの果実もあっただろうし、道すがら新たにナツメヤシを見つけることもあったかもしれない。もし彼らが海岸沿いを歩くこともあれば、魚を取ることがあったとも考えられよう。もし途中で人の住む土地を通過することがあれば、そこで物々交換で必要な食料を得ることがあったかもしれない。そう考えてみると、彼らが生きていくためには、なんとか十分なだけの食べ物があったのではと推測できる。

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ちからの見せ方

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。」(出エジプト記15章22~23節)さてイスラエルの民はエジプトから追われるという不安から解放されて、約束の地を目指して旅を続けていた。では、彼らの歩みは何の問題もなく順風満帆に進んでいたかと言えば、そういうわけでもなかったようだ。エジプトから解放されたことは、確かに良かったのだが……ひとつの問題が解決して安心すると、それまでは気にならなかったこと、小さな問題が気になってしまうという、それが人の常というものであろう。

つい先ごろまでは、エジプトから逃げることだけに必死になっていたイスラエルの民であったから、おそらくよそ見をする余裕もなければ、立ち止って周りの様子をじっくりと伺うようなこともしなかったに違いない。しかし今になって少しばかり心に余裕が出てくると、今度は自分たちの置かれている環境が、厳しいものであることに気付いてしまったようである。なんと彼らには水を見つけることすらできなかった。まぁ、急いでエジプトを後にしたのである。十分な旅の準備などできるわけがなかったろう。しかもナイルで潤されていたエジプトを離れてしまっては、そこは岩と砂ばかりの荒野でしかない。人が住んでいるような場所もなかったであろうし、仮に人が住むような町や村があったとしても、イスラエルの民の全員を受け入れることは、不可能だったに違いない。

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