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たぶん、幸せ、かも

神がなさった良いこと。今ひとつは、自分が幸せかもしれない、と感じられること。

果たして自分は幸せなのだろうかと、そのように考えてしまうことがしばしばある。そう考えるときに、いつも悩んでしまうことがある。「そもそも幸せって何なんだ?」幸せの定義というべきか、私にはこれがよく分からない。今まで何度も考えてみたけど、未だに答えを出せないでいる。きっとこの先何年掛かっても、その答えは見出せないだろうと、もはや諦め掛けているのも事実である。だから私は自分が幸せなのかどうかと、考えるたびに、少なくとも不幸せだとも感じないから、たぶん幸せなのかもしれない、とそう思うのだ。なんとも大ざっぱと言えば、その通りなのだが。もっともその考え方をするのであれば、幸せが何かもよく分からず、幸せと感じていないのであれば、もしかしたら不幸なのかもしれない、とそう考えてしまうこともできなくはないだろう。

さてグラスに水が半分入っている様子を見て、「半分も入っている」と思える人はポジティブな思考の持ち主で、反対に「半分しか入っていない」と思う人はネガティブな思考の持ち主である、というのはよく聞く話である。先の例もあるように、おそらく私の場合は前者であろう。ポジティブというと聞こえは良いが、私の場合は、ただ能天気でオメデタイだけなのかもしれない。それとも、不都合なことには気が付かないふりをしたいだけなのだろうか。
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待つこと

電車通勤の経験が長い人であれば、おそらく一度や二度は、途中でお腹の具合が悪くなって、目的の駅にたどり着く前に下車してトイレに駆け込んだことがあるだろう。私もそのような一人である。というか、私の場合はふた月に一度くらいの頻度であることなので、通勤途中の主要な駅のトイレの場所と、どの駅のトイレが比較的新しくてきれいであるかは、概ね把握しているつもりだ。経験のある人なら分かってくれると思うが、あと一駅で降りる駅に着くから我慢しよう、などとは思わない。その一駅の距離が命取り、とまではいかないだろうが、私は経験したことがないが思わぬ事故や、そこまで至らずとも、この世に生まれてきたことを後悔したくなるほどに悶絶の一歩手前を味わうことになろう。たとえ仕事に遅れようとも、後で文句を言われようとも、そんなことはどうでもよい。安全と健康を考えるのであれば、我慢などせずにさっさと電車を降りるに限る。耐え忍んだところで、誰も褒めてはくれないのだし。

さて、ある日の私は上野東京ラインに乗って東京駅を目指すものの、ひとつ手前の新橋でギブアップ。電車を降りてトイレを目指すのだが、トイレにたどり着いたからと言って、すぐに目的を達成できるわけではない。なぜなら目的を同じにする人たちが大勢いるからだ。さらに待つこと数分。ようやく順番待ち行列の先頭になった。苦しみからの解放はもう目の前である。自分の順番が来るのをじっと待つ。もしここで誰かに「一万円あげるから譲って欲しい」と言われたらどうするだろうか。いや、冗談じゃないと、きっと断るに違いない。「では、百万円にするから」と言われたら……一瞬心を動かされてしまうが、この場所で待つことには百万以上の価値はあるだろう。まぁ、さすがに二百万と言われた、考えてしまうだろうが。待つことには待つだけの理由があり、待った末に得られるものにはそれだけの価値があるのだ。
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見ても気付かず

私にとって至福の時間とは何であろうか。何をしている時に、私の身も心も平安に満たされるだろうか。やはり信仰者として、ここは「聖書を読んでいるとき」とか「礼拝をしているとき」とか答えるべきなのかもしれないが、実際は違う。もっと現実的というか、五感すなわち肉体で感じることのできるものが、私を満足させるのである。例えば、おいしいものを食べている時とか。それ以外では何があるかなぁと考えてみると、いや、何が気持ち良いかって、やはり背中を掻いてもらうことだろう。もしくは、自分で孫の手を使って掻くのでも十分に幸せを感じることができる。私がまだ子供だった頃からの癖というか、好みというか、今でも変わらないことのひとつと言えよう。きっと歳を取って死ぬまで、これは変わらないだろう。

いや、誤解されるといけないから念のために言わせてもらうが、毎日必ずとは言わないまでも、風呂に入るときには背中も洗うようにしているから、垢が積もって痒みがあるというわけでもない。痒いから掻いてもらったり、掻いたりするのではなく、ただ気持ちが良いからという、ただそれだけの理由だ。さて先日背中に手を伸ばしてみたら(ついでに言うと、誰にも掻いてもらえず、孫の手も手近になければ、仕方がないので手を背中に回して自分で掻くこともある……もちろん範囲は狭まってしまうのだが、何もしないよりはマシである)掻き過ぎてしまったのだろうか、引っ掻いた跡のようにカサブタができているではないか。灯台下暗し、ではないけれども、自分の背中というのは、直接見ることができないだけに、どうなっているのか気付かないものである。
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帰ってきたペテロ

何が大変かと言えば、毎度のことだが、「これ」の書き出しをどうするかということだ……。いきなり本題、つまりは聖書の話から入ることもできるのだが、そうすると真面目になり過ぎてしまうような気もするし、いかにもな雰囲気にになってしまいそうで、どちらにしてもかたくるしいものと思われてしまい、そうなると興味を持ってもらえないのではないか、つまり読んでもらえないのではないか、などと考えてしまうのである。そういえば牧師さんも礼拝のメッセージの前にジョークなり、小話を語ったりするものだが、なんとなくそうする牧師さんの気持ちも分からなくもない。わざわざ最初から敷居を高くしてしまうこともないだろう。むしろ敷居を低くしておいて、話の聞き手なり読み手なりの注意を引き付けておきたいものである。本題で伝えたい肝心なところにたどり着く前に、相手の興味が失われしまっては元も子もないというものだろう。

それにしても、毎回ネタを考えるのは難しい。毎日の生活の中での思ったことや気付いたこと、見たことや聞いたことから、これぞというものを探そうとするのだけれども、いざ書こうとすると何も思い浮かばないこともある。さすがに、手持ちのネタも底を尽いている今日この頃である。頑張って何とか捻り出そうと苦労しているのだ。今さらだが、気になったことをその都度書き留めておけば、後から役に立てることができそうなことは分かっているのだが、実際はそうするわけでもない。私の問題は、せっかく思いついた物事を忘れてしまうということもさることながら、いや、もしかしたらそれよりも根が深いのは、忘れてしまう自分に気付かないことだろう。「良いこと思いついた!次はこのネタを使おう!」とその時は妙な自信たっぷりなのだが、後から「ありゃ、何だったかな?」となってしまうのである。
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求めていたもの、必要なもの

先日、私の誕生日であった。人生百年であればまだ半分以上は残っている。もし90年であれば、折り返し地点はすでに過ぎている。さて残りの人生どれほど残っているのかは分からないが、なんだか長生きしてしまいそうな気がしなくもない。あまり長生きもしたくはないのだけれど。まぁ、こればっかりは神が何と考えておられるか分からない。まさしく天の御心のままにと、神に委ねるしかない。

それはさておき、さすがにこの年齢になると誕生日だからといって、プレゼントをもらえることもない。そんなわけで誕生日プレゼントというものが欲しければ、自分で買うしかないのである。ということで、何を買おうかと考えてはみるのだが、欲しいものがありすぎて困ってしまう。まったく物欲の深さに我ながら呆れてしまう。ここしばらく控えていた車の部品を交換しようか、それとも変わり映えのないコレクションに加えるべく腕時計を買おうか、はたまた妻が買い換えたのに合わせてスマホを買い換えようか、いや、やっぱりここは最近の私が最も熱意を感じていることを考えると、ウォーキング用の靴を買おうか……と悩んでしまう。とは考えてみるものの、いざ自分で買うとなると、予算の制限が出てくるので欲しいものと買えるものを見極めなくてはならない。自制心がどれだけ保てるのか、まさしく葛藤である、自分自身との戦いである。まぁ、冷静になって考えてみれば、週末にしか乗らない車にお金をかけるぐらいならば、次に車を買い替えるために今は我慢した方がいいのかもしれないとか、腕時計のベルトだけを変えれば気分転換にもなるのではないかとか、自力でバッテリーを交換しただけに愛着のあるスマホを変えるのはもったいないとか、靴は必要なものだから都度必要になったら買えばいいじゃないかとか、なんとか今のところは落ち着いている。とは言うものの、ヤフオクのウォッチリストにまだ車のパーツと腕時計が登録されているので、完全に物欲が収まったわけではないようだ。
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