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良い神

神がなさった良いこと。今ひとつは……いや、ひとつふたつと神のなさったことを数えていくのはきりがないのではないか。

この一年を通して神のなさった良いことについて考えてみたが、改めて振り返ってみると神のなさる良いわざは、countless(数え切れないもの)であり、limitless(制限がないもの)であり、unmeasurable(はかることのできないもの)であるということだ。一方で神が悪いことをなさったかと考えてみると、これが何ひとつとして思い浮かばないのである。

たしかに私の周りでは何も悪いことが起きていないかと言えば、そういうわけでもない。それどころか、何かと私を悩ませたり、不安に感じさせたりするようなことの方が多いのではないかと思えてしまう。果たして、それでも神は何も悪いことをしないと言えるのだろうか。悪いと思えるようなことを見てみると、神がそれを起こしているというだけの理由を見出すことができないのである。それは私が信仰者であるがゆえに、良いことはすべて神のおかげであると考え、また悪いことはそうではないと思っているのだけなのではないか、人はそう言うかもしれない。確たる根拠があるわけでもないし、具体的な証拠を見せることができないから、そのように言われてしまっては、何とも反論のしようがないのだが。

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捕らわれの身

神がなさった良いこと。今ひとつは、試練の時の脱出の道を人のために備えてくださっていること。

先日の朝のこと、職場の最寄り駅の改札を出て、駅と隣接する駅ビルとを繋いでいる通路を歩いていたら、目の端に何やら動くものの影を捉えた。はて、何であろうかと思い、目を向けると、大きな黒い揚羽蝶が天窓のところを飛んでいるのが見えた。どうやら、どこからか迷い込んでしまい、外に出られなくなってしまったようである。天窓の向こうには晴れた青空、そして風に流される小さな雲の固まり、どうやら蝶はガラスの向こうに帰ろうとしていたのだろう。だが、どれだけ羽を動かそうとも、そこから出ることはできないのである。あのままでは弱って通路の床に落ちて死んでしまうか、天井の隅に巣を張る蜘蛛に捕らえられて死んでしまうか、いずれにしても残念な最期を迎えることになるに違いない。

さて程度の違いこそあるだろうが、世の中の多くの人たちは、どこかで閉塞感を感じている、もしくは感じたことがあるのではないだろうか。日常の生活のなかで、ふと立ち止まって自分自身を顧みるときに、自分には何の悩みも不安もないし、先々まで明るい見通しが立っていると、何の疑いもなくそのように答えられる人は果たしてどれほどいるだろうか。むしろ人が立ち止まって思い起こすことは、自らが抱えている心配事や悩み事ばかりであろう。私などは人生を左右するような大きな問題こそないものの、日々小さな悩みの連続である。例えて言うならば、ボールプールの中にいるようなものであろうか。周りにあるボールの一つひとつが、問題であり、悩みであり、心配事であって、ひとつふたつと手に取って何とか解決して、遠くに放り投げたとしても、まだまだボールはたくさん残っている。ボールを掻き分けて進んでみたところで、ボールは私の後ろに回り込んで視界から去っただけで、消えてなくなったわけではない。そうこうしているうちに、誰かが外からボールを放り込んできたりする。もしかしたら、それが多くの人にとっての現実ではないだろうか。
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マグロのように

今年も残すところ、後わずかである。振り返ってみると、慌ただしい一年だったような気がする。後半は、これを書いている余裕すらなかったほどに、何だかんだと忙しかったような。それでは、何をしていたのだろうかと考えてみても、これをやっていたから忙しかったとか、あれをしていて時間を取られていたとか、一つひとつ具体的なことを挙げることができない。出張が多く、仕事も忙しかったというのも事実であるが、それだけではなかったような気がする。何かに追われていたのか、それとも何かを追っていたのか、いずれにせよ只々慌ただしく過ごしていた。暮れもこの時期になりようやく落ち着いてきたようだ。もっともこの平安も今だけのことであろう。年が明けたら、また忙しく過ごしているに違いない。慌ただしい日常は、今しばらく続きそうな気がする。

そのようなことを考えていたら、自分の姿がマグロのように見えてしまう。いや、刺身になって皿の上に並べられているマグロではなくて、回遊魚としての生きているマグロの方である。海にいるマグロは泳ぎを止めると死んでしまうから、寝ている間でさえも泳ぎ続けなければならないという。もちろん、マグロみたいに動き続けていたいわけではないし、そもそも体がもたない。地上で暮らす人間が寝る間も惜しんで動き続けていては、体調を崩すか、悪くしたら死んでしまう。さすがに寝ている間は体を休めることはできるが、目が覚めている間は常に何かに追い立てられているような気がするのだ。寝ている間は別としても、起きている間は私自身の思いにかかわらず常に動き続けていないといけない、そんな自分がなんかマグロみたいだなぁ、と思うのだ。
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この人を除け

ここ数年ほど、私の本を読むと言えばもっぱら歴史物や時代物ばかりである。どうやら私はあるジャンルの本を読んで気に入ってしまうと、ずっと同じような本ばかりを読んでしまうらしい。それも何年にも渡って読み続けてしまう。そんな私が中学生くらいの頃によく読んでいたのはSF物だった。今でもたまに、ふと読んでみようかと思うこともあるが、やはり時代物に手が伸びてしまう。一通り自身を満足させることができたら、またSFでも読んでみようか。

ところで英国の著名なSF作家、アーサー・C・クラークの書いたものに「幼年期の終わり」という作品がある。TVドラマ化されたものを、少し前にケーブルテレビで放映していたので、ちょっと懐かしくなって見てしまった。さて、あらすじの一部だけを紹介すると、物語は20世紀の最後から始まる。紛争などで人類が自らを破滅の道へと追い込んでいる時、宇宙人がやってきて人類を救うというものであるが、とある事情から、50年間は姿を現さずに特定の人間を通じてのみ、間接的に人類に介入するというものである。彼らは実質的な人類の管理者となり、彼らの指導のもと人々の生活は向上し、あたかもユートピアで生活をしているかのごとくであった。やがて50年が経過し、宇宙人が人間たちに姿を現すことになったのだが、その姿は人々を驚かせるものだった。地上に降り立った宇宙人の代表者は、頭には小さな角が生え、背中には革のように丈夫でしなやかそうな翼に、棘の生えた尻尾がある。そして人類の倍はある体を支えている足は、獣の蹄のように割れている。まさしく中世絵画に描かれている悪魔の姿そのものだった。というのが、前半部分である。物語はさらに続くわけだが、SFが好きであれば読んでみることをお勧めする。
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同情する神

困った時の神頼み、人はそのように言うことがある。もし信仰の篤い人が聞いたのならば、そのような自分の都合で神を頼ろうとするのは本当の信仰ではないと、非難するかもしれない。また信仰を持たない人が聞いたのならば、努力を怠って他者にすがろうとはけしからんと、叱るかもしれない。時が良くても悪くても、神に感謝し賛美を捧げることが、真の信仰である。もちろん、その通りである。問題を解決する過程において、人は経験を積み新たな知識や知恵を得るのである。それもまた然り。そのようにして考えると、どうもこの「困った時の神頼み」という言葉には、良い印象を持つことができなくなってしまうのも、仕方のないことだろう。かく言う私自身も、この言葉がどうしても好きになれないのだ。

しかしながら、口に出すことはなくとも、誰しも胸の内では似たような思いを持ったことがあるだろう。困難に直面したときに、誰かに助けを求めたくなったことがあるに違いない。それが人というものではなかろうか。もちろん、そのような困窮して弱っている自らの姿を、実際に人に見せるかどうかはその人次第であろう。だがそうは言っても実際には、如何に神に感謝をしていようとも、またどれほど勤勉に日々過ごしていようとも、問題というのは避けられないものである。神への忠実な思いがあったとしても、またどれほど鍛練を積んでいたとしても、どうすることもできない事があるかもしれない。もはや万策尽きたとき、人は誰かに頼りたくなるだろう。頼る相手は、ひとそれぞれだろうが。
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