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幸せな人の習慣

神がなさった良いこと。今ひとつは、人が幸せになるための道を、神が備えてくださっていること。

何がきっかけなのかはまったく分からないが、時々何かの拍子に、自分は幸せなんだろうか、と考えてしまうことがある。そしてこれも毎度のことなのだが、そんなことを考えていると、では、幸せとは果たして何なのであろうか、という疑問も湧いてくる。幸せが何であるか、その答えは、今に至っても私には分からないままだ。おそらくいつまで考えてもその答えを見出すことはできないかも。結局のところ、幸せというのは明確な定義などないのだろう。人が幸せだと感じていれば、その人は幸せなのだし、反対に幸せじゃないと思っているのであれば、その人は幸せではないのだろう。その人がどう感じているか、それだけのことなのかもしれない。つまり、人を取り巻く環境や状況がその人を幸せにするのではなく、人が置かれている状況をどう捉えるかが人を幸せにもするし、不幸にもするのだろう。水が半分入っているグラスを見て、まだ半分残っていると考える人は幸せな人だろうし、半分もなくなったと考える人は幸せな気分にはなれないだろう。まったく同じ状況でも、それをどう捉えるかがその人を幸せを左右すると言うことか。

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繰り返すこと、繰り返さないこと

気がついてみたら、今年も十二月になってしまった。年々時間の過ぎていくのが早く感じられるようになっていくのは、なぜだろうか……なんてことは、いくら考えたところで答えなんか見つからないだろう。それはそうとして、一年の終わりが近づくにつれて、果たして今年は何かをやり遂げたのだろうかと考えることがしばしばである。で、何か成したかと言えば、何もないのが現実だったりするのだ。日常の様々なことに追われているうちに、時間が過ぎてしまったようである。このままではいかんなぁと後悔と反省を重ねるのだが、たしか一年前も同じようなことを考えていたような。もしかしたら、さらにその一年前も。いやはや二度あることは三度あると言うかと思えば、歴史は繰り返すとも言う。けれども今から一年先のことを案じるのは、それはそれで意味がない。来年こそは何事かを、と思うのであるが、これも今まで通ってきた道であろう。

さて十二月と言えば年末であると同時に、クリスマスの季節でもある。慌ただしい日常に呑まれて、脇目も振らずに過ごしていたら、十一月の暮れの街はクリスマスの粧いを呈しているのを見て、そういえばクリスマスか、と気づいたくらいである。
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