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幸せな人の習慣

神がなさった良いこと。今ひとつは、人が幸せになるための道を、神が備えてくださっていること。

何がきっかけなのかはまったく分からないが、時々何かの拍子に、自分は幸せなんだろうか、と考えてしまうことがある。そしてこれも毎度のことなのだが、そんなことを考えていると、では、幸せとは果たして何なのであろうか、という疑問も湧いてくる。幸せが何であるか、その答えは、今に至っても私には分からないままだ。おそらくいつまで考えてもその答えを見出すことはできないかも。結局のところ、幸せというのは明確な定義などないのだろう。人が幸せだと感じていれば、その人は幸せなのだし、反対に幸せじゃないと思っているのであれば、その人は幸せではないのだろう。その人がどう感じているか、それだけのことなのかもしれない。つまり、人を取り巻く環境や状況がその人を幸せにするのではなく、人が置かれている状況をどう捉えるかが人を幸せにもするし、不幸にもするのだろう。水が半分入っているグラスを見て、まだ半分残っていると考える人は幸せな人だろうし、半分もなくなったと考える人は幸せな気分にはなれないだろう。まったく同じ状況でも、それをどう捉えるかがその人を幸せを左右すると言うことか。

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すべてにおいて

聖書には、このように書かれている。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章18節)すべてのことについて感謝しなさい。まぁ、それが良いことであろうことくらいは分かっている。しかしながらそれを実践するのは、どうも難しそうに思えてならない。例えば、である。終電がなくなるまで仕事をして、家に帰ることも出来ずに、ネットカフェで夜を過ごして、翌朝また会社に出掛けて行く。ひと月の間に何度かそんなことをしている状況を感謝に思えるかというと、いや、私には無理だ。屋根の下で夜を過ごせることは感謝してもよいのかもしれないが、家があるのに家に帰れないというのは、恨めしく感じることはあっても、感謝には思えない。

ところがここで言っている「すべての事について、感謝しなさい」ということばの意味は、私が先に書いたようにとらえるべきではないだろう。誰しも嫌な思いをすることがあれば、辛い目に遭うこともある。それらのことを、いちいちありがたがっていたら、おそらく性格の歪んだ人間になってしまうだろう。まさか神がそのようなことを人々に望んでいるとは思えない。参考までに同じ箇所を英語の聖書で読むと、このように書いてある。”In every thing give thanks”(KJV)または”give thanks in all circumstances”(NIV)日本語で言うのであれば、すべてにおいて感謝しなさい、もしくは、あらゆる状況において感謝しなさい、という意味になろう。
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