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永遠に生きること

神がなさった良いこと。今ひとつは、永遠のいのちを約束してくださっていること。

ところで永遠のいのちと言っても、神が与えられるそれは、いわゆる不老不死というものではない。もし神が不老不死のいのちを与えようと言ったら、私はどうするだろうか。果たして、それを喜んで受け入れるだろうか。いやいや、それはないだろう。私はきっと遠慮するに違いない。いや、遠慮ではなくて、はっきりと断るだろうと思う。不老不死。すなわち老いることもなければ、死ぬこともない。それだけを聞くと、なんとも良いことのように思えなくもない。老いず死なず、ということは寿命がないということになる。言うなれば、時間の制限を受けることのない身分になるということだ。やりたいことがあったら、いつでもやることができるのだ。今日やれなかったら、明日でもよい。そして明日がだめなら……時間はいくらでもある。そうやって考えると、ずいぶんと気が楽になるのも確かだ。焦ることも慌てることもないのだから、のんびりと日々を過ごせるに違いない。

しかし冷静に考えてみれば、そんなに楽しいことばかりではないのが、この世界の現実ではないだろうか、残念なことかもしれないが。例えば、やりたいことをやるだけの時間が限りなくあったとしよう。そうだとしても、あるのは時間だけで、お金は保証されていないのだから、やりたいことをやるためのお金を稼がないといけない。不老だから永遠に定年にたどりつかないわけで、つまり永遠に年金を払い続けるだけで、いつまで経っても年金をもらうことはできないのである。当然、定年退職を迎えることはないので、退職金を手にすることもできない。どれだけ働いて、どれだけ積み立てても、返ってこないのである。まぁ、途中で退職すれば話は別だろうが、いつかまた働かないとならない。つまりは、これを永遠に繰り返さなければならない。そうだとすれば、世の多くの人々にとっては、これは苦痛以外の何ものでもないだろう。
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クレネ人シモン

ふと気づいてみれば、私が信仰を持つに至ってから20年以上の月日が経った。私の記憶が正しければ、私が信仰を持ったのは二十歳の夏だから、もうすぐ四半世紀になろうか。我ながら、一度も信仰を離れずによくもここまで来れたものだと感心してしまう。とはいえ、必ずしも熱心であったとは言えないが、まぁ、そうだとしても続いているのだから、そこはよしとしよう。あの頃を振り返ってみると、私が信仰を持つきっかけになったのは、何か特別なことがあったというわけでもない。神の奇跡を見たわけでもないし、神の声を聞いたわけでもなければ、神の愛を感じたわけでもない。散々にあれやこれやと考えた末、キリストを信じた方が自分にとって得になるという結論に達したからである。何が得かと言えば、天地万物を創造されたほどの大きな力を持つ神に敵対するのではなく、そのような神の側に立つことができるということ、そして地獄ではなく天国に行くことができるということ。それくらいである。要するに、滅びではなく繁栄を選んだだけである。

「天国に行くには神を信じるしかないのか?」もしかしたら人はそのように聞くかもしれない。本当のところがどうなのか、正解は私には分からない。分からないが、少なくとも私はそうであると信じている。では、もし私が不正解だとして、他にも天国に行くための道があるとしたら、どうだろうか。それでも私は、私が今信じていることに後悔はしない。例えばであるが、神を信じなくとも、善行を積めば天国に行くことができるとしたらどうだろうか。とてもじゃないが、私には無理なことである。なんせ根が善人ではない私が善ばかりを行うなんて、できるわけがない。私のような人間にできるのは、神を信じるくらいである。自らの行いで天国への切符を手に入れられるほど、私は完璧ではない。
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